聖岩 Holy Rock 日野啓三 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ <例> 跣《はだし》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 <例>|深い愛《アフェクション》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 <例> [#改ページ] ------------------------------------------------------- 帯文 長い過去の記憶の闇から、 果てしない未来へと連なる私 タクラマカン砂漠、エアーズ・ロック、カッパドキアの岩窟群、実現しなかったサバンナへの旅…そして東京の埋立地にも同じ陽が昇り、懐しい惑星の風景が広がる。著者の記憶と経験を、荒涼と美しい世界との出会いとして描く作品集 中央公論社 定価1600円(本体1553円) どちらから書き始めようか。青い花から、それとも火星の黄色い荒地から? どちらからでも多分同じことのはずだ。…遠からず百億人に達する遺伝子の組み合わせは、いずれどこかでこの私にほぼ近い脳神経回路を偶然に実現するだろう。それは私ではないだろうか。…火星の黄色い風景に強くひかれる人間、その荒々しさに言い難い魅力を覚える人間は、基本的に私だ、と私は考え始めている。…私は遠からず火星の黄色い地面に立つだろう。そして必ず青い花に出会うだろう。(『火星の青い花』より) [#改ページ] 目次 プロローグ 心の隅の小さな風景 塩塊 聖岩 幻影と記号 古都 遥かなるものの呼ぶ声 カラスのいる神殿 石を運ぶ 火星の青い花 あとがき [#改ページ] プロローグ 心の隅の小さな風景 ポプラ  五歳のとき連絡船で「朝鮮」(いまの韓国)に家族と共に渡った。長く心細い旅だった。初め大邱市の郊外に住んだ。初めてポプラを見た。細長くひっそりと空に向かって立っていた。私は絵を描くのが好きだった。小学校に入ってから、秋の暮れに黄ばみかけたポプラをクレパスで写生した。その絵を教師が児童画展覧会に送った。子供の絵にしてはうますぎるし、さびしすぎると言われて返された。  その後、小、中学校と「朝鮮」の幾つもの町と都市を移り住んだが、どこでもポプラがあった。裏側が少し白っぽい小さな葉が、いつも風に鳴っていた。  そして敗戦の年の晩秋、「京城」(現ソウル)から引き揚げ列車で釜山港へ向かった。十六歳だった。焦土の「内地」で生き直すのが恐ろしかった。貨車の小窓から、荒野の果てに葉の落ちたポプラの大木が一本、夕日に金色にきらめいているのが見えた。生きてゆこうと思った。 「内地」でポプラは滅多に見かけなかったが、こころ萎えるとき、しばしば荒野に立つポプラを思った。  あとになって外国に出るようになってから、ユーラシア大陸の幾つもの土地で再びポプラに出会った。トルコの地方都市の郊外で、タクラマカン砂漠のオアシスの町で。こころの芯が静かに立った。  カスタネダの本の中に、インディアンの呪術師が「死ぬとき戦士の魂は“自分の場所”にかえって、ひとり最後の踊りを踊る」と言ったと書いてある。夕日に輝くポプラの下で「最後の踊り」を踊りたい。 オアシス  砂漠でオアシスに出会ったような、という言い方がある。そこは純粋な砂漠ではなかったし、思いがけなく命が助かったわけでもなかった。だが空港から車で三十分余の間、ほとんど一木一草も見なかった。  そしていきなり緑したたる豊かな街路樹と咲き乱れる花々の都市だ。イラン南部の都市シラーズ。思わずわが目を疑った。街のすぐ外には、むき出しの岩山が連なっているのに。  旧王族の大庭園。精妙なアラベスク模様の典雅な館に、噴水と糸杉と赤白黄色に咲き乱れる一面の満開のバラ(五月だった)。この都市が生んだ大詩人ハーフィーズの墓所の前では、とりわけパンジーとケシの花壇が華やかだった。  公園の隅で大きな井戸のようなものをのぞいた。地下深く澄んだ水が流れていた。 「二十キロも離れた山地の雨水を、こうして引いてくるのです。空港からの途中に見えた土マンジュウの連なりの下が、その|地下水路《カレーズ》ですよ」と案内者が言った。「水の中に魚たちがいるでしょう。目がありません」。  広漠たる乾燥地帯の中に、地下水路の魚の目が退化するほどの年月をかけて(絶えず補修して)、人間の手でつくり出されたオアシス都市。すべての植物がここでは人工の賜物なのだ、と知ってその幻想的な美しさは、いっそうこの世のものならぬ陰影を増した。「そばに木があり花があり、水の音が聞こえるだけで、私たちは幸福なのです」  と街の人は言った。十年ほど前のことだ。 踏切  いま私は東京世田谷の、私鉄電車の線路ぎわに住んでいる。家から二十メートルほどのところに踏切がある。車は通れないとても小さな踏切。人もあまり通らない。二階の寝室の小窓から、それが正面に見おろせる。  昼闇は何気なく通っているのだが、夜になると青白い蛍光灯に照らされて、住宅地の薄ヤミのなかにそこだけが、あやしく浮かび出す。赤黄黒の三色に濃く塗り分けられた遮断の棒も、異様に鮮やかだ。  たまに早目に寝室に上がると、終電車が通るのに出会う。赤い信号灯が点減し、遮断棒がおり、電車が轟音とともに走り過ぎる。遮断棒がゆっくりと上がったあと、人影が渡ってゆくことがあり、だれも通らない静寂のなかに、土手の桜が一本だけ妖しく満開のことがあり、赤い満月が不気味に昇ることもある。  それだけなのだが、私はいつも息をつめて、その小さな光景に魅入られている。何なのだろう。古来ふたつの道が交差するところは、一種魔的な場所とされてきた。「逢魔が辻」という言葉があったかどうか。十字の形は世界中で広く神秘的な記号でもあった。  鋼鉄のレールをひた走る銀色の電車は、自然の掟とか歴史の必然とか、そういう何か絶対的なものの象徴のように、深夜の私には感じられる。自然の掟は死を含む。  その合間を、その交差する道を、私たちはしばしの間、通り過ぎることを許されている——という事態が、さり気なくありありと青白い光に照らし出されて、眼下にある。  三色の遮断棒が上がったあと、うつむいて歩く年輩の男があり、腕をからめ合って小走りに駈けてゆく若い男女もある。  見知らぬその人たちがとても身近だ。 [#改ページ] 塩塊  秘蔵物というほどの物ではないが、常に自分の部屋の身近な場所に置いてある愛蔵物が、私には三つあった。聖地ベナレスの路傍で売っていた薬の小ビンに掬ってきたガンジス河の水、写真のフィルムケースに詰めてきた中国奥地タクラマカン砂漠の砂、山東省の黄河の岸でビニールの小袋に入れてきた粉末状の黄土。いずれも美術・工芸・文物の類ではなく、大きな自然の一部を自分の手で小さな容器に詰めてきた元素的物質。  それらを眺めながら、年中ほとんど日ざしが入ることのない半地下風の小部屋の中で、世界の広大さとその営みの無限を想ってきた。  ところが数年前、あるトラブルで黄土を入れておいた薄いガラス製のシャーレが壊れ黄白色の粉末が床に四散して以来、三つの愛蔵物は二つになってしまった。 (自分でもよくわからないが、二という数は終ることない自己分裂を想像させて落ち着かない。私にとって基本の数は三でなければならない)  数日前、思いがけなく新しい第三の元素的物質が、私の部屋に現れた。ただしそれは自分の手で採取してきた物ではない。透明な容器にも入っていない。差渡し四センチ余りの剥き出しの固体。塩化ナトリウムを主成分とする純白の結晶物、つまり天然の塩の塊。  それは北米大陸、アメリカ合衆国西部ユタ州の大塩湖グレートソルトレークから来た。正しくはその湖岸の州都ソルトレークシティから来た人から贈られた。それまでは名前さえ知らなかった人、ある催しに共に出席して出会った人物。再び会うことはないだろう。  雨催いの春の朝、電車を二度乗り換えてモノレールで羽田空港に行った。金沢市で開かれる「自然と文学」というシンポジウムに出席するためである。  空港ロビーで、シンポジウムの企画者から初めてその人を紹介された。 「アメリカで最も注目されている新しいネイチャーライティングの作家テリー・テンペスト・ウィリアムスさん」 「Nice to meet you」  とだけ私は言った。もともと私は英語の会話能力が貧しいうえに、ここ何年も英語をしゃべることがなかった。緊張し気が重かった。握手もしなかったし、顔もよく見なかった。服装も化粧もラフで自然で、声も態度も控えめで落ち着いた大柄な女性、という印象を受けた。四十代前半ぐらいの年齢だろう。  機会は幾度もあったけれど、私はアメリカに行ったことがない。ベトナム戦争当時サイゴンで多くのアメリカ人特派員たちと一緒だった。女性記者たちも知っていた。彼女たちはいつもタフでアクティヴだった。その遠い記憶の印象と目前の女性作家のそれとは重ならない。ちらとだけ視線の合った深い眼窩の奥の淡色の目は、遠く煙っているように見えた。  シンポジウムでの参考のためにと思って、英訳された私の短篇小説のコピーを持参していた。それを渡すと素直に喜んだ。彼女には、彼女の新作長篇作品を翻訳出版する日本の出版社の担当者が同行していて、その翻訳ゲラ刷りの冒頭部分を貸してくれた。  旅客機内の彼女の座席がちょうど私の前だった。小松空港までほぼ一時間、私は彼女の長篇の冒頭部を日本語で読み、彼女は私の短篇小説を英語で読んでいた。座席の背の上に、白いものがまじった暗褐色の、俯いた彼女の頭髪があった。髪は後頭部で無造作に束ねられていた。 「ネイチャーライティング」は、ヘンリー・ソローの「森の生活」(一八五四)に始まる、自然を舞台としたアメリカ独特の文学ジャンル。私はその流れにとくに関心をもつ者ではないが、近年に感性・思想・文学の新しい領域として、急速にすぐれた作家を生み広い読者層を獲得し始めていることを、知っていた。  だが単に秘境探険や野生生物観察の記録だけではないようだ。「私がこの物語を語るのは、私自身を癒すため、未知と対決するため」と、ウィリアムスさんも長篇のプロローグで書いている。この時代の不安な魂の震えが文章の芯にあった。  グレートソルトレークの水位が異常に上昇して脅かされる渡り鳥たちの描写と、筆者自身らしい「私」の家族の不幸な出来事の記憶とが重なり合って書き進められてゆくのだが、「私」の母は腫瘍を発見されて精密検査の直前、グランドキャニオンヘコロラド川の川下りに行った。 「時聞が必要だったのよ。そのことを受け入れて、そのことを考えてみる時間が」  と母は「私」に言う。  すぐ前の座席で彼女が読んでいる私の短篇小説も、私が五年近く前にガン手術の直前、東京都西部、奥多摩渓谷の谷川まで行った体験を、そこでの幻想も含めて書いたものだ。私も驚いたが、伎女も驚いただろう。グランドキャニオンの壮絶さはないとしても、真夏の夕暮の奥多摩渓谷を、崖を埋める木々の濃い緑を、その中で狂おしく鳴き続けるセミの声を、つまり死の恐怖に照らし出されて異様に輝く自然を、私は綿密に書いたのだったから。  彼女がユタ州ソルトレークシティの生まれ育ちで現在もそこに庄んでいることを、私は予め企画の担当者から聞いていた。その都市には壮麗なモルモン教の大本山があり、彼女一族もその教徒のはずなのに、腫瘍の精密検査の前にわざわざグランドキャニオンまで出かけた母親を書くアメリカの作家が、いま私の五十センチ前にいる。  私が生涯アメリカを訪れず英会話を本気で習わなかったのは、敗戦直後、物質的にも精神的にも何もなかった焼け跡の学生時代に、自信にみちて街を行くバラ色の頬※[#底本では「來+頁」、第3水準1-93-90]の「進駐軍」兵士たちが、余りに何もかも持っているようにひたすら眩しかったことへの、屈折したこだわりのせいに違いない。  だがベトナム戦争の後半の頃から、前線に飛ぶ輸送機の中で暗く沈みこんでいる若い米軍兵士たちの沈黙には、惻々と心に迫るものがあった。ウッドストックの荒野に集まった何十万という|跣《はだし》に近い若者たちの魂の飢えを記録した映画には、ローマ帝国時代の聖書の民たちの集りを想像したものだ。  そしていま彼らの少なくとも一部は、聖書の神話さえも越えて、より根源的なもの——自然の声を聴こうとし始めている。ニューヨークでもシカゴでもサンフランシスコでもなく西部の大塩湖の岸から来たアメリカ人の作家が、文字通り身近だった。  小松空港から金沢駅前の高層ホテルに入る。昼食のため階下の日本料理店に集まる。ウィリアムスさんと席が隣になった。  スシにもテンプラにも彼女は大仰に興味をみせたりはしなかった。いつのまにかトランクから取り出してきたらしい自分の短篇集の扉に、長い献辞を書いて渡してくれた。眼鏡を掛けて、達筆の英文をかろうじて判読した。 「深い敬意をこめてこの本を贈る。私たちが共に抱くこの大地への|深い愛《アフェクション》のしるしとして」  だけど私が夕暮の谷川の水際に坐りこんだりしたのは、目前の死の恐怖に怯えたからで、普段は川べりなどにわざわざ出かけたりはしないし、大地と自然への私の感情はaffectionというほど一途なものではなく、もっと入り組んで両義的でさえあって、不気味で恐ろしいと思う方が多い——と言おうとしたのだが、そんな屈折した心情を英語で言うことはできない。 「川はふしぎです。その激しい流れの音に聴き入っているうちに、川がまるで自分の中を大きく流れるように思われてきて、恐怖する自分が薄れていった。あなたのお母さんもそうだったと思う」  とだけ幾度も|支《つか》えながら言った。 「精密検査の結果は悪性だったけど、コロラド川を下りながらすべてを受け入れられる気持ちになった、と母は幾度も言ってました」  と彼女は感傷的でなく答えた。  それから他の人たちが話しかけてきて、ふたりだけの話は途切れたが、アメリカ文学界の中でのネイチャーライティングの位置のようなことを誰かが質問したあとだったと思う(彼女の答えを私は聞いていなかった)、いきなり私に彼女は呟くように言った。 「Sometimes 孤独な思いをすることがある」  文学界の中での自分の仕事のことだろうと思ったので、私は少し意地悪く答えた。 「Always 私は孤独だと思っている」  そう言ってから、彼女がlonelyと言ったのは、文学界の中でのことではなく、この世界の中での思いだったのではないか、とも思った。ただこのしっかりと落ち着いた女性が、出会ったばかりの私にそんな思いを洩らすのはそぐわない気がしたし、茫漠と煙ったようにしか見えないその目の奥には、西部の大平原の深い憂愁の思いが沈みこんでいるようにも感じられた。  私は膝の上で、彼女の短篇集の扉を開いて、眼鏡をはずしたまま献辞の英文を眺め直した。  affectionという単語がafflictionというようにも見えた。afflictionは確か苦悩というような意味の言葉だ。  部屋に上がるとタ刊が配られていた。一面トップの特大の大見出し——「警察庁長官、狙撃されて重傷」  私が異例に早起きして家を出た頃に起きたことらしい。日中テレビは見ないので、事件の発生はたいてい新聞を読むまで知らない。一月の神戸の大地震も。十日前の地下鉄毒ガス事件も。  二十四階の部屋の広い窓から、曇り空の下の金沢市街が見えた。金沢市を訪れるのは三回目か四回目だが、来るたびに鉄筋コンクリートのビルとモルタル塗装の建物が増えている。街が固く白っぽくなってゆく。東京もそうだ。高い所から見下ろすと、海浜に曳き上げられた船の底に密着したフジツボなどの貝殻の群を連想する。  灰白色の固く尖った現代都市が、さわればザクリと切れるような、その不気味な鉱物質の正体を急に|顕《あらわ》にし始めたように思った。都市はもはや楽しく華やかな|保護区《リフュージ》ではない。「Refuge」は機内で一部を読んだウィリアムスさんの長篇のタイトルである。  夕方ホテルの別室で、ネイチャーライティングに専門的な興味をもつ、日本各地から来た英文学者たちと話をすることになっているが、まだ少し時間がある。窓際の肘掛け椅子に腰をおろして、貰ったばかりの彼女の短篇集の最初の一篇を読んだ。  筆者らしい「私」が東アフリカの有名な野生動物棲息地セレンゲティ国立公園を、マサイ族のガイドとともに歩きまわる体験を書いたものだ。センテンスの短い、乾いて、陰影もある詩的な文章である。「私」は野生動物たちの姿と行動に驚き感動し、同時に動物たちの習性や風のにおいや草の動きなどと神秘的な交感能力をもつマサイ族のガイドに、畏敬の念を抱く。  読みながら思い出した。私がいまシンポジウムに参加したりすることができるのも、実はアフリカのお蔭だったことに。五年前の春、春機発動した若者のように、急に東アフリカのサバンナに行きたいという圧さえ難い全身的欲求に駆られた。出版社で初めて前借りをして予防注射も受け、念のため健康診断をしてもらったところ、何の自覚症状もなかった内臓の腫瘍を発見されたのだった。旅行はキャンセル。精密検査を受けると、発見がもう一、二か月遅れていたら、ガンウイルスは間違いなく全身にまわっていただろうと言われた。  時期は同じではないかもしれないが、彼女が私に代って、あるいは実現できなかった夢の中の私自身として、サバンナを歩きまわっているような奇妙な現実感を覚えながら、時間を忘れて彼女の短篇を読んだ。 「テントへと歩いて戻りながら、私は立ちどまって南十字星を仰ぎ見た。それは私の新しい星座だ。草の茂みに脆いて、その葉をしっかりと握った」  という文章でその短篇は終る。  私も入院前の最も不安だった時期、東京世田谷の自宅近くの空地に茂る雑草の柔い茎を、セイタカアワダチソウのざらついた葉を、有刺鉄線の柵越しに握り締めていたことが幾度もある。  その夜、ホテルの最上階の小ホールで、シンポジウムの前夜祭的なパーティーが催された。  ウィリアムスさんはさっぱりした服に着換えていたが、派手ではなかった。少し興奮していた。午後案内されて海岸まで行ったという。日本海の海の色が素晴らしかったと繰り返して言った。  少し海の色の話をしたあと、あなたはセレンゲティの草を握ったが、私は東京の雑草を幾度も握ったことがある、と私は言った。 「本当に!」と彼女は驚いた。 「私の体の細胞と草の細胞が直援に話をした」  と私が言うと、「どんな話を」と本気に尋ね返す。 「この危険にみちた世界を生きてゆくのはとても|きつい《シヴィアー》なことだが、お互いに元気を出して——と彼らは話し合っていた」  私も本気で答えた。空地に沿った道を歩きながら、直射日光の下で逞しく伸び茂っている雑草の傍に私は無意識のうちに立ちどまり、そして手がひとりでに有刺鉄線の間をくぐり抜けて、葉を撫で茎を握っていたのだった。私は腰を屈めて動かなかった。真昼の光の中で知覚だけが極度に澄んで、触覚が本当に声として聞こえた。 「そうです。本当に草はそう言います。あなたも草の言葉がわかるんですね」  彼女は呼吸を弾ませて言った。  非現実的なほどふしぎな気持ちだ。今朝まで全く未知だったアメリカの作家と、直接に言葉は通じ難いのに、草についてはこれだけ心が通じるということは。お互いに書いたものを読んだ、ということもある。だか歴史と文化の違いを超えて、性差も超えて、いま共通し合えるものが、意識の地平の下に現れ始めている。  本来の畏るべき自然(古代のギリシャ人たちはそれを「フュシス」と呼んだ)——最も基本的で最も普遍的なもの、最も直接的で無限の奥行と広がりを秘めたもの。文明の、文化の、それぞれの肉体の崩壊の予感の中から、おのずから姿を現すもの。  パーティー後の二次会を断って部屋に戻る。早起きして、電車とモノレールと飛行機を乗り継いで、馴れない英語を話して、それ以上に思いがけなく心を開いて、私は疲れていた。  普段は夜更けの三時四時になっても神経が冴えて催眠薬なしには寝付けないのに、午後十時に室内のテレビで警察庁長官狙撃と地下鉄毒ガス事件の大がかりな捜査のニュースを見ながら、眠りこみ始める。  大きく何かが壊れてゆく、という感覚が体の中をゆっくりと過ぎた。  シンポジウムは翌日午後一時半から、市内の文化会館で行われた。  三十分前に私たちは控え室に集まった。基調講演をするウィリアムスさん、司会役の環境問題専門の新聞記者、パネリストの私と英文学者ふたりと、その他主催者側の人たちである。  ウィリアムスさんは枯れかけた|蓬《よもぎ》の葉に似た、褐色のまじった暗緑色のゆったりと裾長の服を着て、落ち着いて見えた。中世の修道士たちが着ていた服のようだ。 「リラックスしてますね」  と声をかけると、真剣に首を振った。 「ナーヴァスになってます、とても」  だがいよいよ開会して最初に演壇に立った彼女は堂々としていた。少しハスキーな低目の声で静かにしゃべり始めた。私は同時通訳の日本語を聞いていたのだが、実は基調講演の前半に彼女が語ったことの内容をほとんど記憶していない。  講演の後半三十分、彼女は自作の朗読を始めた。私が冒頭だけを読んだ長篇『Refuge』(日本語訳タイトル『鳥と砂漠と湖と』)の最終章である。その最終章の印象が、前半のスピーチの記憶を消すほど強烈だったのだ。  欧米の作家たちがしばしば公的な場で自作を朗読することは知っていたが、実際に見て聞くのは初めてだった。彼女は両手で著書を顔の前まで持ち上げて、少なくとも一年以上前に書いたはずの自分の文章を、まるでいま現に書き進めているように次第に熱っぽく、だが的確に読んだ。大柄なその姿が壇上でさらに大きくなってゆくように見えた。中世の僧服のようだと感じた独得の長衣が、いっそうよく似合った。  彼女は読んだ——「私」は百四十年来ユタ州に住み続けてきたモルモン教徒の家系の者である。ここでは慎ましさがとくに女性に要求されてきた。だが母と祖母ふたりと叔母六人が乳ガンの手術を受け、「私」自身も二回乳房の組織検査で悪性すれすれと診断されたとき、「私」は慎ましさを捨てた。「私」は「片胸の女たちの一族」に属している。  それは遺伝ではなかった。かつて血筋の女性にガンで死んだものはいなかった。一族の女性たちが次々と乳房を切除されて死んだのは、ユタ州の西隣に広がるネバダ州の砂漠で、核兵器の地上爆発実験が一九五〇年代初めから十余年間もあいついで行われたあとだ、と気付いたからだった。  ここで私は私の好きなロサンゼルス出身の写真家リチャード・ミズラックの写真集を思い出していた。初期には砂漠の風紋や夜明けのストーンヘンジや月明のギリシア神殿などを幻想的に撮っていたミズラックが、八十年代半ばからネバダの砂漠を撮り始める。実験場上空を覆う黒雲、爆撃演習場の大穴に溜った赤っぽい水、砂の上に無造作に転がった爆弾、砂漠の窪みに累々と積み重なった牛や羊たちの死骸など。  犯された自然の繊細で不吉な映像。 「片胸の女たち」という鮮烈な言葉。  それらが重なり溶け合って、その後の彼女の朗読を、文章としてより濃密なイメージのうごめきとして私は聞いた。  彼女は読んだ——ある夜、「私」は世界中から来た女たちが、砂漠で赤々と燃える火を囲んで狂ったように踊る夢をみた。インディアンの老女から教わった歌を、彼女たちは歌った。    ア ネ ナ ナ    ニン ナ ナ    ナガ ムチ    オ ネ ネイ    (ウサギのことを思ってごらん    どんなに静かに地面を歩くか    覚えておこうよ    こっちも静かに歩けるように)  それから女たちは鉄条網のフェンスをすり抜けて、実験場の汚染地域へと行進した。砂漠を蘇らせるために。 (ミズラックの写真の中を、幻想の女たちが行く)  彼女たちは兵士たちに次々と逮捕されたが、新しい行進がさらに実験場へと入りこんだ。同じ歌を歌いながら。    ア ネ ナ ナ    ニン ナ ナ    ナガ ムチ    オ ネ ネイ (いつの間にか、夢の女たちが、「私」に変っている)  実験場の境界線を越えた「私」たち十人のユタ州の女性は、軍用地不法侵入のかどで逮捕された。地上実験停止の後も、地下で核実験が続いていた。手錠をかけながら警官がブーツの中に匿した紙とペンを見つけた。「これは何?」と警官は言った。「武器です」と「私」は微笑した。  調書をとられてから「私」たちはバスに乗せられ、砂漠の中に置き去りにされた。だが「私」たちは平気だった、塩湖の岸のヤマヨモギの香りを魂の|糧《かて》とする女たちだから。  ……………………  背後の拍手の音で、私は濃く大きな恐ろしい夢から覚めた気がした(私は最前列の席にいた)。  彼女はネバダの砂漠ではなく、金沢市のホールの壇上にいた。朗読の終りが講演の終りだった。  だが彼女は拍手とともに壇を降りなかった。いつのまにか左手に枯れかけた草色の紡錘形の物体を握っていた。植物の茎と葉を固く束ねたようなものだった。どこにそんな物を匿し持っていたのだろう。  それから右手に持ったライターで、おもむろにその物体の先端に火をつけた。燻って白い煙があがった。彼女は先端の燻り火を吹きながら悠々と壇を降りて、火のついた枯草の束を最前列の端の聴衆に手渡した。  朗読の最後に出てきた彼女の「魂の糧」——湖岸のヤマヨモギの束だ、とやっと気付いた。順に手渡されてきたヨモギの束は、両手でなければ持っていられないほど太く重かった。燻り続ける束の先端を顔に近づけると、少し甘くていがらっぽく、したたかに乾いたきつい香りがにおった。  ウィリアムスさんの熱意の余韻で、続くパネルディスカッションも、予定時間を越えて活発に行われた。私もパネリストのひとりとして幾度も発言したが、何をしゃべったかぼんやりとしか覚えていない。  再び私たちは控え室に集まった。私はここから直接空港に向かって、羽田行きの最終便に乗ることになっている。ウィリアムスさんたちは金沢にもう一泊ののち、京都、広島をまわって帰国するそうだ。消防署が知ったら目を剥くにちがいないパフォーマンスのあととは思えないほど、彼女は平静だった。  放射能を帯びた砂漠を大股に歩いてゆく彼女の後姿が見えた。インディアン風のバンダナで髪を縛って、蓬の色の厚地の長衣を着て、革のブーツの中には彼女の「武器」を匿し持って。年齢にしては多過ぎるように思われる髪の白いものは、危険な砂漠の風に吹き晒されたためかもしれない。 「わずかの時間でしたが、多くのことをあなたに教えられた。ありがとう」  と私は言った。英語が少し滑らかに口に出るようになっていた。 「幾つものことを共通して考えていることがわかって、とてもうれしかった。これから書いてゆく力が湧きました」  彼女の口調も表情も率直だった。ディスカッションの時間がのびたため、私は急いで空港に向かわねばならなかった。 「危険にみちたこの世界を生きてゆくのはとてもシヴィアーなことだけど、お互い元気で」  と立ち上がって私は別れの挨拶をした、草の言葉で。  彼女もわかって微笑した。自然ないい笑顔だった。その笑顔のまま、彼女はゴツゴツした白い塊を掌にのせて差し出した。 「私の故郷の塩」  とだけ言った。  もう何年も前、オーストラリア大陸の中央大平原で、トルコのアナトリア高原で、一面に干上がった、あるいは岸に沿って塩分が盛り上がって析出した内陸塩湖を見たことがある。茶褐色の広大な地面の一部が純白と化して日ざしにきらめき渡っていた光景は、目の奥がしんと静まり返るように神秘的だった。  それにしてもいつの間に彼女は、こんな物を持ってきていたのだろう。壇上でヤマヨモギの束をいきなり取り出したときそっくりの、ふしぎな仕草だった。この|女《ひと》はいろんな妙なものを匿し持っている。  ズシリという程ではないが手応えのある重さの塩塊が、掌から掌に渡されて、私たちは別れた。  東京の深夜。  アメリカの西部から来た塩塊が、蛍光スタンドの光に照らされて、私の机の上にある。  眼鏡をかけて顔を近づけると、水晶に似た正六面体の塩の結晶体が静かに光っている。大地から滲み出て、太陽の熱で固まった本物の自然物の威厳。  手に取って舌の先で舐めてみた。塩辛さより苦味を感じた。少し暗く奥深い複雑な苦味。乾いた光の味もした。ネバダからの放射性粒子の味かもしれない。 [#地から1字上げ](インディアンの歌の翻訳は、石井倫代訳『鳥と砂漠と湖と』宝島社刊から引用させていただいた) [#改ページ] 聖岩  いま書斎の椅子の背に掛けてある、濃紺の地に小さな白い正方形の模様の並ぶオールアセテートの、さらさらして洗濯し易い長袖のシャツ。これを着て、オーストラリア中南部の海岸に近い中都市アデレード郊外のモーテル近くの手入れされた草原に、私はひとり両脚を投げだして坐っていた。日本の三月末は、南半球のここでは九月の末だ。オーストラリア文化省の招待で、一か月間各地をまわる。この都市で催される一種の文化会議にオブザーバーの形で出席することが、新聞社あてに来た招待の主な目的だった。だがその会議そのものに興味は薄かった。強く印象に残ったのは、討論の主要メンバーのひとりとして出席した|原住民《アボリジニ》の老女性詩人だった。他の発言者たちは、リベラルな白人の文学者たちも、言葉激しくアボリジニに対する白人たちの二百年にわたる迫害と差別を語ったが、その老女性詩人は直接には怒りも嘆きも口にしなかった。  彼女は、雲を歌った自作の詩を朗読した。達者ではないが、低くゆるやかな英語の声は、次第に自信と威厳を帯び、肥えて大きいその褐色の顔、その姿全体が、みるみる地平線から湧いて膨れ上がる雲のように感じられた。雷をはらんだ暗い雨雲ではなく、もこもこと柔く穏やかな白く大きな雲。この広い大陸の乾いた大平原にふさわしい雲だった。  シドニー経由でアデレードに来て、私は初めてアボリジニに出会った。到着早々、市内の公園の隅で樹蔭に坐りこんで、観光土産品の木彫の小動物を彫り続けていた男の老人である。人種的には黒人種ではないのに、黒人より顔が黒かった。目も鼻も口も大きかった。何より強く印象づけられたのは、その無表情である。視線も動かなかったし、頬※[#底本では「來+頁」、第3水準1-93-90]の皮膚も動かなかった。何を感じ考えているのか、想像する手だてが全くなかった。こんなに内面を推し測り難い人間に出会ったのは初めてだった。  そしていま、堂々と自作の詩を詠む老女性だ。雲のイメージは彼女の内面の比喩でも象徴でさえもない、と私は感じた。英語で詩を書き、それを英語で朗読するこの女性詩人は、多分少数の教育あるアボリジニなのだろうが、彼女にとって内面とは覗きこんで分析する小さな暗い井戸ではなくて、果てしない外部でひとりでに動き膨れる大きな白い何かだ。  |大いなる母《グレート・マザー》という神話的イメージを、私は自然に抱いた。公園で黙々と小動物の形を彫り出していた男の老人の無表情も、雲を自分のことのように語る女性詩人と、決して別ではないのだ、と私は心を底深くゆすぶられる思いがした。  モーテルのまわりにはアボリジ二はいなかった。車も滅多に通らず、秋に入った夕暮の青い静寂が、家並の少ない郊外地区に沈みこんでいる。夾竹桃に似た葉が細長くて固い植物が動かない。枯れかけて葉が白く縮んだ柳のような、飄然とふしぎな気配を帯びたユーカリの高い木もある。  私は一向に色の褪せない紺と白模様のアセテートのシャツを夏になって着るたびに、あのひと気ないモーテル前の草原にひとりで坐りこんでいた時の、青い静寂と孤独感を思い出す。韓国とべトナムには常駐特派員としていたことはあったが、こんな遠くまで来たのは初めてだったせいかもしれない(近くの海の向こうは南極大陸だ、と考えてもいた)。それ以上にこの大陸、この地面、このユーカリが、アボリジニたちのものなのだ、と前日の老女性詩人の詩を思い出しながら、体の下の草と土に感じとっていたからでもあろう。韓国もベトナムもそこの国の人たちの土地、私はそこでよそ者でしかないことは事実だったけれども、何か微妙に違っていた。国境で区切られた土地ではなく、ここは丸ごとひとつの大陸だ、という違いでもなかった。  そう、いま改めて甦ってくるのは、外国の土地での疎外感というよりも、自然そのものの中での人間の違和感ないし孤独感というべき感情だ。私が初めて出会ったアボリジニの老人の、人間的な表情の起伏が乏しすぎると驚いたあの無表情、大平原の雲の動きをふしぎな威厳をもって詠んだ老女性詩人の大きな内面——それはこの大陸の大きすぎる自然の次元のものだった。  その日は土曜日だった。暗くなってモーテルに戻ってレストランに入ると、中はほとんど普段着に近い白人たちの家族連れでいっぱいだった。やっと隅の小さなテーブルに席を見つけて食事をとりながら、広くもない簡素なレストランを見まわしていると、白人の客たちが入ってきたと感じたほどにぎやかでも満ち足りてもいないことに気付き始めた。客たちは互いに知り合いらしく、浮き浮きと声をかけ合い、テーブルを離れて肩を叩いたり、笑い声をあげたりしているのだが、そらぞらしいとは言えないまでも何か薄ら寒いものが透けて感じられる。  だがひとりで黙って食事をとっていた私自身も、タ暮の草原で噛みしめていた寂寥感を、身につけたままだったのだろう。  ひとりの中年の男が、私のテーブルに近づいてきた。私と同じ四十代半ばぐらい、地味で人のよさそうな感じの男。 「よかったら食後のコーヒーを、私たちと一緒に飲まないかな」  とごく自然な態度で言った。酔ってはいない。率直な人柄のようだった。日頃ひと付き合いのよい方ではない私も、素直に誘いにこたえてテーブルを移した。口数の多くないいかにも家庭の主婦といった感じの奥さんと、小学校の上級生ぐらいの女の子と、低学年らしい男の子の家族。子供たちも行儀よかった。 「あなたがひとりだけでさびしそうに食事していたんで、ワイフが呼んであげたらと言ったんだよ」  と照れたように男は言った。  それから型通りに、どこから来た? 見物か仕事か? と言った質問の間に、自分は子供用の本や雑誌の注文をとって配ってまわっている、と男は言った。そして「明日は何か予定があるかい、なければぼくが車で、この街を案内してやるよ」と申し出た。  その後幾度もの外国旅行の場合をすべて合わせても、全く知らない土地の人から、このときほど率直に声をかけられ誘われたことはない。私が余程さびしそうに見えたのだろう。本当に翌日昼過ぎに、彼は男の子を乗せて自分の汚れた車でモーテルまで迎えに来て、市内各所を見物させてくれたうえ、自宅で夕食までご馳走してくれたのだ。  彼も奥さんも本気に親身だった。私は英語の会話が堪能でないし(新聞社の外報部に多年勤めていながら本当にそうだ)、相手のオーストラリア英語の発音はしばしば聞きとりにくかったけれど、私は懸命に頭の中で作文しては冗談を言い、それがふしぎに通じては声をあげて笑ってくれた。  そうして思いがけなく親密な一日を共に過したあと、モーテルまで送ってくれるという絵本セールスマン氏と車で家を出た。彼の家はモーテルからそれほど離れていない郊外の住宅地にあったが、街の夜景を眺めさせてあげる、と遠まわりして、街を遠く取り巻く丘の上まで行って車を停めた。  かなり高い丘の端だった。車から出ると周囲の闇が実に不気味だった。東京の郊外はもちろん日本のどこの町の郊外とも違っていた。近くに人家も人の気配もないだけでなく、荒れて乾いた地面も、そこにかろうじて生えている僅かな木も草も、人間と通じる生気のようなものが全く感じられないのだ。危険な肉食獣はこの大陸にはいないはずなのに、濃すぎる闇そのものが得体の知れぬ殺気を帯びているようにさえ感じられる。 「きれいだろう」と指さされた方角を見下ろすと、一望のうちに眺め渡される街の全体が、街灯から住宅の玄関の灯、店のネオン、中心部の高層ビルの全階まで、すでに深夜に近い時間にもかかわらず、明りがつけ放しではないか。普通の店にはもう客はなく、オフィスビルのすべてが深夜勤をしているはずはない。  そのことを少しも不自然に思ってはいない相手は、あのあたりがどこ、あのビルが何のビルと屈託なく教えてくれるのだが、夜更けても明りを消さない、いや消すことができないこの街自身の心理、というより生理がわかったと思った。この街の自己照明はそのまわりの、さらにその果ての、この荒地の、この大平原の荒涼たる闇に対する自己証明なのだ。明りを消せば、周囲の広大な闇が忽ち人間の都市を呑みこむだろう。自然が文明の営みを覆いつくすだろう。ぞっとするほど恐ろしいことで、涙がにじむほど|健気《けなげ》なことだった。  昨夜モーテルのレストランで私がひそかに感じた白人たちの間のうそ寒い気配、殊更浮き浮きと振舞う態度、そして見も知らぬ外国人の私に示してくれた家族たちの親身な行動、それもこの荒れて広すぎる大自然の中に点在して生きる人たちの無意識の恐怖ではないとしても、深い寂蓼からに違いない。  私は車のライトだけがわずかの空間を照らす闇の丘の端で、ごく普通に地道に善良に暮す男の手を幾度も固く握った。世間と戦って生きる、などということは実は恵まれた偶然のことであって、恐るべき自然に囲まれて肩を寄せ合って恐れながら生きるのが人間の基本なのだ、とあなたは私に教えてくれた、と告げようとしたのだが、英語でうまく言える自信がなくて、もう一度、黙って男の大きな手を握っただけだった。  だがこのとき私が実感したと思ったこの大陸の自然の広漠さは、まだ序の口だったのだ。数日後、私は大陸横断鉄道に乗って、南西部の端の都市パースまで行くのだが、その二晩三日がけの直線コースの車窓から見続けたのは、天と地を鋭すぎる巨大な刃物で正確に真横に切ったとしか思われない地平線、山も谷もなく所によって数本かたまった真昼の亡霊じみたユーカリの老樹と風化した丘、雑草が必死にしがみついている乾ききってざらついた地面のひろがり。場所によっては土中の鉄分が大気中の酸素にじかに酸化された真赤な土。そして人間の姿を見かけたのは特急列車が速度も落さず通過する形ばかりの小さな駅の木柵によりかかっていた上半身裸の男たちだけ。夜明け方に野ウサギの群が列車と平行して狂ったように走るのを一度だけ見た。  そんな平坦な大平原を、日暮も夜中も夜明けも真昼も、ただ一直線に走り続ける。シベリア鉄道は一週間余も走り続けるといわれるが、途中に町もあろうし、林も川もあろうし、雨も降り霧のかかる箇所もあるだろうが、ここオーストラリア大陸の最南部を地図上では真横に走るこの鉄道には、ほとんど何の変化もないのだ。少なくとも私の乗った秋の初めの季節、日はただ照り、雲は動かず、ひたすら乾いてひたすら沈黙し、時間まで気化してしまった気がした。  アボリジニの姿さえ見かけなかったが、彼らが三万年あるいは五万年来、生き続けたのはこんな広漠と苛酷な世界だったのだと思った。始終微妙に表情を変えたり作ったりできるだろうか。その荒涼さは生命の芯まで恐怖を覚えさせると同時に、ふしぎな神聖さに輝いていた。直線の鉄道線路を一本作った以外、人間の手に汚されていない自然。ほぼ二万年ほど前、海面の上昇とともに、この大陸がニューギニアとインドネシアから完全に切断されて以来、人間はじめ生物のすべてが閉じこめられてきた孤独の大陸。  そしてパースから旅客機で再びアデレードに戻って、今度は小型のプロペラ機で、大陸中部を北上し、大陸のほぼ中心部に横たわる一個の岩塊としては世界最大といわれる「エアーズ・ロック」まで私は飛んだが、その間約六時間ほど小型機の窓から眺め下ろし続けた風景。多少のなだらかな地平の起伏はあるが、一面に青味がかった茶褐色の平原が視野いっぱいに広がり、ぐるりと地平線がそれを取り巻く。列車から窓外に見た地面はざらついて見えたが、高度三千メートルほどと思われる空から眺め下ろす平原は、熔岩のひろがりのように硬く鉱物質の感触だ。数箇所に小さな建物の集りらしい所も見えたけれど、ほとんど変らぬただ硬い地面のひろがりだけである。数十本程度の木立は識別不能で、まとまった森林は認められなかった。  やがてその茶褐色のひろがりの中に、かなり広い不規則なかたちの白い地面が見えた。晴れた午前中の日ざしに一面純白にきらめいている。 「あの白いのは何か」  と大声で操縦士に尋ねた。 「干上がった塩湖だ。白く光っているのは塩の結晶」  という答え。それにしても何という広い湖とその完全な干上がり。霞ヶ浦などの何十倍も大きい。地平線を越える広大な地域から土質中の塩分を溶かし流し集めて、それをこのように一面に干上がらせてしまう気象作用の信じられぬスケールの大きさと徹底さ。 「自然」という言葉ないしイメージを、われわれ小さな島国の人間は、いかにこぢんまりといじましいスヶールでしか実感していないことだろう。われわれの伝統的自然感覚がどれほど繊細で緻密で陰影が微妙だとしても、この大きすぎる単純苛烈な風景の中では、忽ち気化するようにさえ思われるのだ。この自然は人間の思い入れや共感を、冷然と黙殺して微動だにしない。いわゆる人間的なものの入りこむ余地がない。その巨大な硬質の沈黙。  地質学者たちはこの大陸内陸部の地形は、二億年来、基本的に変っていないと言っている。二億年の沈黙の風景。小型機のエンジンの唸りにもかかわらず、その沈黙の凄味がひしひしと伝わってくる。 「自然との共存」などという言葉を安易にわれわれは口にするけれど、自然は人間など微塵も必要としていないのだ、ということが痛切にわかる。それ[#「それ」に傍点]はただ存在するのだ。意味も目的もなく見られることも理解されることも賞讃されることも愛されることさえも、必要とすることなく。  二百年来、渡来した白人たちは海岸部にとりついて、幾つかの大都市(シドニー、メルボルン)と中都市(アデレード、パース、ブリスベーン、ダーウィン)と、その周辺の牧場、農場に住んできたが、彼らは背後の内陸部が、「広大な無」であることを常に意識してきた、無意識には恐れてきたはずだ。その事実上、無辺際の「無」の領域に入ってみると、彼らが深夜も都市の明りをつけ続ける深層心理的理由が、改めてよくわかる。  当初植民者たちは、内陸部に大きな内海があって、そこには樹木や草が茂り、動物や鳥や魚たちが群れ棲んでいる、と信じようとしたらしい。その幻想の内海発見のために多くの探険者たちが命を落したのだが、彼らを命がけの探険行に駆り立てた気持ちもわかる気がした。  背後ノ空虚、中心ノ無ニ、人間ハ耐エラレナイ。  何時間も、剥き出しの大地の上を飛び続けていると、私自身も一種深い精神的めまいとともに、「空虚」に引きこまれ、「実在」のニヒルに硬質な感触に触れかける。 「どのくらい、このコースを飛んでる?」  と私は操縦士に尋ねた。 「二十年」 「週に一度ぐらい?」 「週に三回、行って帰る」 「そんなに毎日のようにこんな土地の上を飛んでて、気がおかしくならないか」 「おかしくなり過ぎて、いまはとてもまともだ」  そう言って、もう若くない操縦士は声をあげて笑った。  私もかろうじて自意識だけの浮遊する極微の一点。あと一線を越せば、あのアボリジニの老人の、古代仏像の不気味な無表情になるに違いない、と他人事のように思う。繊細に変化する人間的表情は、この余りにも剥き出しの世界を耐え通せない。 「ほら、着いたぜ」  操縦ハンドルを握ったまま、操縦士が振り向いてそう言い、私は消えかけた自分を取り戻す。  前方下方、赤茶色を帯び始めた大平原の一点に、ポツンと一個の粒が現れ、機が下降するにつれてそれはみるみる塊となり、そして岩塊となった。岩山ではない。平原の地面に半ば埋まった半球体、正確には球体ではなく幾分細長の楕円状球体の上半分。  エアーズ・ロックだとすぐにわかった。すでに幾度も写真で見ていた。だがネパールのポカラの町はずれから夜明けのヒマラヤ山脈の高峰のひとつを見上げたときのように、何だ、写真とそっくりじゃないか、とは思わなかった。写真のフレームはこの無辺際の平原を撮り収めることはできない。眺めまわすと三六〇度地平線によってだけ区切られた大平面の真中に、ひどく小さくそしてとてつもなく大きく、その岩塊はあるのだった。大平面の中では小さく、私から見れば大きく、比較する基準の振幅で知覚が混乱する。 「ここの上は気流が悪いのだが、まわりをまわってやるよ」  と操縦士は気さくに言って、翼を傾けながら旋回して下降した。  下降するにつれて、岩が平原と同じ赤味を含んだ鮮やかな茶色になってきて、平原がそこでプクリと膨らんだように見え、ここがオーストラリア大陸のほぼ中心部だったことを思い出して「大陸のヘソ」という言葉が浮かんだ。だがいっそう下降すると、巨岩には無数のシワや浸蝕の痕が刻みこまれているのがわかり、巨大な隕石が落ちてきて半ば埋まったままのようだとも感じた。  前世紀に海岸部から謎の内陸部をめざした探険家たちが、ここまで辿りついたかどうかは知らない(「エアーズ・ロック」という名前はエアーという探険家の名を記念してつけられた、という話を聞いた気もするが確かではない)。だが緑豊かな美しい内海のかわりに、中心に刻印されたようなこの巨岩に出会ったら、それ相応の感動を覚えたのではなかったろうか。美しい内海という幻想が、すでに地球上に存在する湖やエーゲ海のイメージを平面的に移動して投影したものだったのに対して、この中心の岩は想像力を上方へと折り曲げる。この中央大平原地帯の、いやこの大陸全体の大地の力が、ここに集中し凝縮して、静かに天へと垂直に上昇する……。この感覚はカメラには写らない。  実際、岩の上で古くて小さな飛行機はミシミシときしんでゆれた。強い上昇気流が感じられた。  ようやく岩からニキロ近く離れた(ここの距離感ではすぐ足もとだ)、簡単な滑走路に着陸した。ひとりだけの客を乗せてこれだけの距離を飛んでくれた操縦士に、私はお礼を言った。「素晴らしい旅だった」と。 「帰りの客があるかな」  瓢々とした風格の操縦士は、気流を眺め上げていた。  滑走路には、筋肉質の体格のいい金髪の若い女性がジープで迎えにきていた。程近い場所に予約しておいたモーテルがあった。吹きさらしの風で白塗りのペンキは色褪せて剥げかけ、発電用か地下水の汲み上げ用か、モーターが喘ぎながら唸り続けている。  部屋は大きなベッド以外の家具はほとんどなく、ベッドのマットもベニヤ板の壁もあらゆる物体が水分を蒸発しきっていた。窓に目の細かな金網が張ってあるのに、洗面所の床には無数の昆虫が、指の長さほどあるカミキリムシまでが、脚を縮めて乾ききっている。踏むとカサコソと砂のような音がした。  物憂く静まり返っていたモーテルにも、他の経路で来た観光客が十人近くいた。中年以上の白人の夫婦連ればかりだ。ひとりでモーテルを切りまわしているらしい金髪の女性が髪をバンダナで縛って、ミニバスで客たちをロックの見物に案内する。半袖のサファリジャケットに半パンツ姿で活発に動き、運転しながらマイクで的確に説明もする。  この岩は世界最大の砂岩の一枚岩で、推定年齢二億年、高さ三三〇メートル、周囲九キロ。鉄捧を打ち込んで鎖を渡し、上まで登れるようになっているが、上は結構風が激しい。去年日本人の男が鎖から手を離して、飛ばされて落ちて死んだ、と私の方を見て言った。 「あなたもトライしますか」  あわてて私は首を振った。  地上から近づいてゆくと、上空からは烈日をはね返して硬く輝いていたロックが意外に脆そうで、至るところに雨水が掘った無数の溝が刻み込まれ、かなりの広さにわたってガバリと剥落した部分が幾箇所もある。それらが日光を吸収するみたいに、全体に陰気だった。  だが陰々たる迫力は圧倒的で、どうしてこんな世界最大の巨岩がこんな大平原のど真中に、大陸の中心部に一個だけ横たわっているのか、その偶然は理解を超える。「この岩は何万何千年の間、アボリジニの聖地とされてきました」という女案内人の説明に深くうなずくしかない。アボリジニの神話では始原の時を「|夢のとき《ドリーム・タイム》」という。この巨岩の出現ないし誕生こそ、ドリーム・タイムの出来事にふさわしい。  剥落した岩の破片を明らかに人為的に並べたり組み上げたりしたところが幾箇所もある。地面と接するロックの外面下部には浅い洞穴に近い窪みも幾つかあって、背を屈めて一、ニメートルほど入った奥の石面に大トカゲや大ヘビの輪郭が、尖った石片で刻みつけられていた。赤や緑や白の染料がそれらの輪郭の刻点に塗られていた形跡があり、またかなり古い刻点の上に比較的新しい線描が重ねて描きこまれてもいた。トカゲもヘビも様式化されていて、なまなましく不気味な感じではない。円や二重同心円の記号がそこここに消えかけている。 「古いもので八千年、新しいものでも三千年ほど前に刻まれたものと、専門家は言ってます。興味があるの?」  と背後から女案内人が尋ねる。息が頸筋にかかるほど近い。 「体の中に何か感ずるものがある」 「この動物たちはアボリジニのトーテム。先祖の姿なのよ」 「東洋では年に動物を当てる古い習慣がある。西洋で自分をサソリ座の生まれと言うように」 「あなたの年は?」 「ヘビ」 「オー・マイ・ゴツド」 「女性を誘惑する……」 「この荒野にリンゴの木はないわ」  冗談を言っている間に、浅く狭い洞穴の中に生気がこもって、仄明りの中で大ヘビがゆらゆらと頭を振る幻覚に一瞬捉われる。しかしその幻覚は陰湿ではなく、同心円の記号と同じように乾いて抽象的だ。  それにしても彼らの聖画には、構図のシンメトリーがなかった。窪みの奥は行きどまりのほぼ円形の平面になっているのに、大トカゲの尾は切れているし、大ヘビの位置は一方に偏り過ぎて無駄な空白が大きい。多分彼らのドリーム・タイムの空間が、三次元の遠近法的空間とは異質だからだろうが、そのことがかえって奇妙な現実感も覚えさせる。  外に出ると他の観光客たちは離れたところで、写真を撮り合ったりムービーカメラを頭上の岩の壁に向けていた。この場所も彼らには少し変った風景でしかない様子だ。そう指摘すると、彼女は肩をすくめて言った。 「ほとんどの観光客がそうよ。みなカメラ、カメラ」 「キリスト教は偶像に関心をもつことを禁ずるから」 「わたしは見えない神も見える偶像も信じないわ」  昂然とそう言って、ミニバスの方へと大股に歩いて行った。  夕食にどんな料理が出たか記憶がない。明瞭に覚えているのは、夕食のあとモーテルの玄関から外に出ると、近くからロック調の楽器の音が大きな音量で聞こえてきて驚いたことだ。モーテル近くに並ぶ灰色の丸屋根のカマボコ型の小屋のひとつで、その音楽は鳴っていた。「バー・エアーズロック」とかろうじて読める、この大平原の夜にただひとつの小さなピンク色のネオンが入口の上にあった。  夜になっても暑くてのどが乾いていたし、広すぎ暗すぎる闇の中で幾分ひと恋しくもあった。小屋の中は薄暗かった。壁の一方に酒ビンが並び、シャツの袖をまくり上げて太い腕を剥き出しにした頑丈そうな若い男たちで、狭い店内はほとんどいっぱいだった。音楽は大型のカセットデッキから鳴っている。冷房はきいているのに汗臭く、荒っぽい空気が充満していた。静かにビールを飲む雰囲気ではなかった。  入口で引き返そうとすると、手が上がって女の声が私を呼んだ。女案内人が傾いたボロ長椅子に坐りこんで、缶ビールを持った手を上げていたのだ。片方の手で自分の横に来い、と合図しながら、横に坐って彼女の肩に手をまわしていたとりわけ体格のいい男に、席を譲れ、と言っている。男はしばらく文句を言っていたが、あからさまに不機嫌な顔で私をにらみつけながら別の席に移つた。  余り良い状況ではなかったが、女は傲然と上機嫌だった。一軒だけのモーテルと幾棟かのカマボコ小屋と機械倉庫しかないこのエアーズ・ロック周辺で、恐らく唯ひとりの若い白人女性なのだろう。昼間のサファリジャケットを、大柄な花模様のノースリーブのワンピースに着換え、髪もほどいて肩まで乱れているが、やや張り気味の顎のあたりの意志的な感じは、有能な案内人のそれだ。店じゅうの男たちが欲情あらわに彼女を見つめ、迷いこんだアジア人の中年男をにらんでいる。男たちはすべて白人のようだが、顔も腕も頸筋も日に焼けきって褐色に近かった。 「この男たち、道路を作っているのよ。ブルドーザーで」  と声を低めることもなく、まわりを眺めまわして言った。「ここの道路ができたら、また別の奥地に行く」 「苦労だろうな、こんな荒地に道路をつくるのは」 「そうでもないわ。山も谷もない平地ですからね」  先程追い払われた男が戻ってきて、酒臭い息を吐きながら屈みこんで女の耳もとで何か言った。 「うるさいわ。駄目だったら」  女は振り向きもし鞍いで声を荒げてそう言ったが、男たちの言葉や視線に絡みつかれることを楽しんでいる様子もある。派手な服装と髪のせいで、昼間とは別人のように女っぽい感じだ。どんな事情でこんな奥地にひとりで来ているのだろう。 「どこの町から来た?」  と私が尋ねたのは、海岸部のどの都市からという意味だったのだが、女の答えは予想外だった。 「ユトレヒト」 「オランダじゃないか。確か高い塔と有名な大学のある古い都市。どうしてそこからこんな遠いところに?」  顔を上げて大声で笑った。 「息がつまるのよ。ヨーロッパの古い都市というのは。人も多すぎて」 「そう、きみの国とぼくの国は、世界でも最高に、国が狭くて人間が多すぎる」 「西アフリカのマリにもいた。ドゴン族の古い村には、ここの岩の下にあったような神話的な記号が泥の壁にいっぱい描いてあった。イスラエルのキブツでも働いた。乾いた土と見えない神だけ。ここはとても気に入ったのでもう二年もいるけれど、少し長く居すぎたようね。今度はアリゾナの砂漠の中の小さな町のレストランで、ミートローフでも焼くわ」  他人のことのように素気なく言って、両腕を上げて背を伸ばした。日が当たらない二の腕の白い内側に、腋毛の茂みが見えた。かずかに腋臭のにおい。  男たちがカセットデッキの音楽とは別の歌を大声でわめくように合唱し始めた。薄暗い室内が歌声と欲求不満の精気と体臭で息づまるようだ。私は冷えきっていない缶ビールを飲み、彼女は名前を知らないラベルのビンから、ウイスキーをコップについでストレートで飲む。 「ヘビの年の男さん、誘惑しないの」  女が物憂い口調でねっとりと言った。 「そんなことしたら、この大男たちにブルドーザーで轢き殺されて、滑走路の一部にされちまうよ」 「臆病なの」 「もうそんなに若くないから」  とは答えたが、身体には狭い室内でじりじりと濃度と圧力を増すセンシュアルな気分が、この小屋の一歩外は果てしない闇と二億年そのままの静寂だという想像と重なって、息苦しいほどになる。自分自身の手ごたえを、何かフィジカルに確かめないと、この大陸中心部に凝縮した<無>に全身消されてしまいそうだ。女をモーテルの部屋に誘う程度のことで埋め合わせるとは思われぬ見えない巨大なものの恐怖。  先程モーテルの玄関を出たとき、大平原の彼方に大きな月が昇り始めていたことを思い出す。満月の夜の大岩を見に行こう、自分の足で歩いて——という衝動が不意に身体の奥の方から強くこみ上げてきた。 「これからロックまで歩く」  と私は気分のたかぶりのままに言った。 「クレージー! 昼間案内してあげたじゃない」 「幸い今夜は満月らしい。月光の下のロックは違うと思うな。それに観光客のメンバーとして案内されてではなく、ひとりであの大岩まで行ってみたい」 「道路で二キロはある」 「道路なんか通らない。荒野を真直ぐに歩く」 「毒のあるヘビがいる」 「ヘビは古い仲間だよ」  本当に毒蛇に咬まれてもここならいい、死ぬならこの中心の場所は最もふさわしい、と本気で思いかける。 「きみも来ないか」  そう言って立ち上がり、カウンターで缶ビールを二箇もらって、店を出た。出口で振り返ると私が坐っていた彼女の隣の場所に忽ち男が坐りこんでいた。  月はほぼ中天に昇っていた。正確に満月ではなくても、そのひと晩前か後の丸く明るい月だ。平原はひたすら黒く、エアーズ・ロックだけがかなり彼方にぼんやりと仄明るい影となって闇に浮いているように見えた。  彼女が来るとは思っていなかったので、小屋を出るとそのまま真直ぐに、モーテル前の整地された広場を横切った。垣も段差もなく、そのまま荒れた平原に入る。モーテルの明りの範囲から出ると、足もとの地面の凹凸もわからない一面の闇。「さまよえるオランダ人」という古い伝説をもとにした有名な歌劇があったことをふと思い出し、あの女は世界の海ではなく世界の荒地をさまようオランダ人だ、と心の中で言ってひとり笑った。  昼間は一面の不毛な平原だとばかり思っていたのに、歩くとしばしば草の茂みに足を取られて転びそうになる。草といっても固い茎ばかりの絡み合った針金のような草だ。そのうえ次第に砂が多くなって、足がのめりこみ、靴の中に砂粒が入りこんで、幾度も立ちどまっては靴を脱いで溜った砂粒を捨てねばならない。咄嗟の思いつきで想像したよりはるかに困難な道程だった。  だが目が次第に闇に馴れてきて、固い草の茂みを避けられるようになり、目的のロックの影の輪郭も見分けられるようになった。手さぐりでビール缶の栓をあけ、砂地をよろめいて歩きながら飲んだ。風はなく真昼の熱気も去って、異様に気分の高まった体には肌寒いほどだ。モーテルの灯がみるみる遠ざかって、小さな光点となり、やがてふっと視界から消えた。  からになったビールの缶を思いきり遠くに投げ、ライターを取り出してタバコの火をつける。白っぽい砂地の中に、葉のない草の灰色の茎が突き出していた。  昼間飛行機の上から眺め渡した地平線の環を思い出し、さらにこの大陸全体の地図を思い描いて、中心部のさらにその中心に近づいているのだ、という想像が狂おしいほど高まってくる。幾度か足をとめて、あたりに耳をすます。毒をもつヘビが砂を滑る音も、虫の声も、一切の生きて動くものの気配はなかった。だが寂寥感も孤独感も全く覚えない。砂に足をとらえられ続けて呼吸は激しくなっていたが、気分は荒々しく澄んでいた。これまで何十年のさまざまな記憶が薄れ、つい先程までいた小屋の|猥《みだ》らな熱気さえ、静まり返った闇の彼方に遠ざかった。  足もとを見つめて草の葉をよげながら、ただ歩く。時間の経過の感覚をなくした。方向の感覚だけが生きている。  顔を上げた。いつのまにか、巨岩の全貌が目の前にあった。「おお」か「ああ」か、思わず自分のものでない声をあげたと思う。昼間は陰々と茶褐色で、夕暮には幻想的な紫色に染まって見えた岩の全体が、いまはただ黒い、純粋に黒い物質の巨大な塊で、その側面に刻みこまれた深浅さまざまな割れ目と隙間と襞としわに沿って、月光が流れ落ちていた。無数の銀色の光の細流に見えた。  光も水のように流れるのだ、と私は放心して呟いていた。岩の真下まで近づけば、その細流のしぶきを体じゅうに受けられる。骨まで光るだろう。  地質学者たちの言うように、この岩もあたりの地形も二億年前とほとんど違っていないとすれば、私は二億年という時間の流れを、いま目の前にしている。光の流れは時間の流れでもあった。光りを創ったものと時間を創ったものとは同じものに違いない、と私は透きとおるようにわかった。この中心の岩は夜の奥で、その秘密を堂々と示している。  だがそのものの名を、私は知らない。  その|示現《エピファニー》の光景は、ひたすら静謐で、限りなく威厳に満ち、そしてただ美しかった。  この場所に一晩だけの逗留の夜、空が晴れ渡っていたことに、偶然にも満月だったことに、私は感謝した。夜の荒地をここまで歩くというようなクレージーな行為への、無意識の弾みになったあのカマボコ小屋の猥雑さに、感謝した。何の呪いのせいか荒地をさまようオランダ女の絶望と勇気に、感謝した。  本当に月光は大岩を流れ落ちるのだ、途切れることなく。  なぜ地面の全体ではなく、この岩の上にだけ光は集まるのだろう。  何千年来ここを聖地としてきたアボリジニたちだけが、その答えを知っているだろう。  ………………  そのとき背後で車が荒土の道路をとばしてくる音が聞こえ、やがて闇の中を接近してくるジープのライトが見え、ライトの光芒の中を赤土の塵が舞って、派手なワンピース姿のオランダ女が現れ、月光の聖地のこの世のものならぬ心身のたかぶりのままに、ひと言も言葉を口にすることなく激しく抱き合って、大岩の影が深々と覆う砂地に横たわり、流れ落ちる光の細流が体のまわりで、心の中でしぶきをあげて散った——というようなことにはならなかった。  もしかしたら本当はそうだったのかもしれないという記憶も、いま全く消し去り難く、二の腕にざらついた粗い砂の肌ざわり、足首を執拗に刺した草の茎先の痛みが、遥かな黒い地平線で切れていた星座のイメージとともに、体の奥の闇の果てに生き残っている気配も覚える。荒地で肉体労働する男たちの無遠慮な視線に刺激された女の体は熱く、神経は異常なほど敏感に震え、贅肉のない脚は強く私を締めつけて、しかも体の芯には荒涼と冷たいものがひそんでいた。  だが月光に輝く巨岩の二億年の沈黙、霊気と呼びたいほど張りつめていた大荒野の中心の凝縮した闇の、思いがけなかった霊的興奮の鮮やかに大きな記憶の中で、ジープのライトも、締まった女体の感触も、草の茎の痛みさえ、果して現実だったかどうか、自信がないのだ。それぞれのその時点では掛替えなく貴重な現実、恩寵とさえ思われた女体の経験が、いまや私の中では重なり溶け合ってぼんやりと白いひとつの幻想になりかけている。  ところが二十年たったいまも、はっきりと記憶していることがある。その夜の夜明けに、干からびた昆虫の死体が散乱するモーテルの一室で見た夢だ。 (人間にとっての現実というものは、何と奇妙なものだろう)  一望の荒地の中に、私が横たわっている。大岩はない。月夜でもない。灰色の空の下の褐色の地面に、黄色っぽく乾いた光が沈みこんでいる。目を閉じてはいるが、呼吸はしている。周囲には誰もいない。その私を、私が上の方から覗きこんでいる。二番目の私がどんな姿なのかは現れないが、切迫した憂慮と不安に駆られている。覗きこみながら懸命に呼びかけている。 「目を開けろ、起き上がれ。そのままだと確実に死んでしまう。とにかく起き上がって動けよ。何かをしろ。目を覚ましてくれ」  だんだん怒りが悲しみに変ってくる。 「本当に死んでしまうよう」  荒地を吹き過ぎる灰色の風。  そして目が覚めた。がらんとしたモーテルの部屋の固いベッドに横になっていた。部屋にカーテンがなかったのだろうか。夜明けの白っぽい光線が部屋に澱んでいる。昼の暑さがウソだったように気温が下がっていた。  夢の中で横になっていた私は何も感じても考えてもいなかったのに、私はベッドに横になったまま、冷気に震えた。自分は死にかけていたんだ、と素直に心底から思った。ここにいては危険だ、ここは危険な場所なのだ、とも思った。みだりに中心に入りこんではならない、資格もなく聖地をうろつきまわってはいけないのだ。  予定ではここには一泊するだけで、きょうの昼前には飛行機で三十分ほどの内陸部唯一の町アリス・スプリングスに行くことになっていたのに、きのう夜遅くモーテルに戻ってきたときには、予定を変えてもう数日女案内人とともにここにとどまる気になっていた。  とんでもない、と私は自分に言った。ここはおまえの心的エネルギーの容量を越えている。予定通り発つのがいいのだ。  立って窓際に行った。窓の金網にしがみついたまま死んでいる昆虫たちの向こうに、夜明けの平原が広がっていた。この窓の方向からロックは見えない。どこからも朝日が射していない平原は、ただ広漠と灰色だった。昨夜はあんなに晴れ上がっていたのに、雲が一面に垂れこめている。霊気の気配などどこにもなかった。多分世界じゅうどこにでもある任意の荒地の単調な風景だった。  朝食のあと、ロビーでオランダの女性に出会った。髪をバンダナで結び、サファリジャケットに半パンツ、足首までの編み上げ靴に、目の粗い長靴下が鮮やかに白い。数枚の書類を留めた紙挟みを小脇に抱えて、「ハーイ」と手をあげて「よく眠れた?」と明るい声で言った。 「あなたはきょうアリス・スプリングス行きね。天候が怪しいから飛行機は予定より早目に発つわ。そのつもりで。早く発った方がいいわよ。雨になると何日も飛行機便は欠航になって、ここは孤立状態になる」  それだけ早口に言うと、片手をあげて掌を二度三度振ってフロントデスクの中に入り、無線電話機に向かって通話し始める。初めは天候と旅客機の運航状況を尋ねていたが、やがて私的な会話になったようで、低く親密な声に変った。嫉妬めいた気分を覚えかける。  頭を振って私は玄関を出た。玄関前の小さな広場の隅に、來竹桃に似た灌木が濃い桃色の花をつけていた。玄関のガラス戸もモーテルの壁も灌木の固い葉並も土埃で汚れているのに、挑色の花だけが場違いのように鮮やかだ。高く宙に突き出たその花の下に、遠くロックが見えた。  雲が低く垂れこめた灰色の荒野の向こうで、大岩も暗灰色に縮んだように見える。襞の部分が深いしわのようだ。天からの光を受けない岩は、ただ大きいだけの岩塊にすぎない。その上で密雲がゆっくりとうごめいていた。夢でみた風景にそっくりだった。  どうしてあんな夢をみたのだろう。自分が死にかけている夢をあれほどはっきりと、こんな場所で? 平原も地平線も、聖なるはずの岩も沈黙していた。ここでは自分の本当の現実の姿が、剥き出しにされるのだろう、という気だけがしきりにした。目を覚まして起き上がれ、と繰り返したあの夢の中の声は何者の声だったのだろう。  地平線の向こうから風が吹き寄せ始めた。眼前の荒野の葉のない草が、カサカサと鳴った。不安なままに、荒れ始める大平原に向かって私は立っていた。  ふとひとの気配を感じた。靴音もなくひっそりと穏やかな気配。横を向くと、アボリジニの老人がいつのまにか並んで、平原を見つめていた。カーキ色の半袖の作業上衣と半ズボンを着ているが、靴ははいていない。きのうも見かけた覚えのあるモーテルの下働き風の老人だった。  顔も髪の色も濃い褐色だが、顎のひげには金色に近い黄色もまじっている。大岩の方角に目を向けたまま、口の中で低く歌のようなものを口ずさんでいる。ゆるやかな抑揚に合わせて、全身をかすかにゆすっている。横顔に表情はなかったが、心を穏やかに開いていることが自然に感じられた。  傍に立っているだけで、ざわめいていた気分が次第に鎮まるのがわかった。 「人間、死んだら、どこに、行くのだろうか」  そんな言葉が誘い出されたように、私の口から出た。一語ずつ区切ってゆっくりと英語で言った。そんな普通なら未知の他人にいきなり口に出来ないような質問が、この老人には少しも失礼にも気恥かしくも感じられない。この人たちはいつもそんな根本的なことを考えている、そんな秘密に近く生きている、と体でわかった。  思った通り、私の方を向いた老人の顔には、驚いた様子も奇異の表情もなかった。通りがかりに道を尋ねられでもしたように落ち着いて、片手を上げて人さし指を黙って空に向けた。 「では、空に上がって、何になるのだろう」  続けて私は尋ねた。  途端に老人は俯いて片手を口に当て、クックッと小声で笑い出した。おかしくてたまらないという様子なのだ。子供でも知っているそんなことを、いいおとなが本気できくなんて、という仕草だった。  ひとしきり屈みこんで笑い声を洩らしてから、上体を起こして、老人ははにかむように一語だけ答えた。 「|風《ウィンド》」  聖なる岩の上で渦巻いて大平原を吹き過ぎる風の顔を、私は一瞬見たように思う。 [#改ページ] 幻影と記号  四十代の後半、このまま五十歳になるということが私にはとても耐え難く思われ、理性的には納得し難い恐怖感を覚えた一時期がある。できるだけ外に出るのを避けて自分の部屋に閉じこもっていた。  千代田区一番町という都心部の町のマンション二階に住んでいた頃のことだ。まわりは高層鉄筋のマンションとオフィスビル。岩山の谷底の感じなのである。深夜、裏階段からゴミを捨てに地面に降りると、周囲は白いタイル貼りの、赤茶色い煉瓦建ての、あるいは部厚いコンクリート肌の壁がそそり立っていて、その上方はるかな狭い夜空に、星が二つか三つだけ見えることがある。  そんな部屋の中で、私は『未来への遺産』といういかめしいタイトルのカラー写真の図版が美しい大版の書物を、しばしば眺めていた。どうしてそんな書物がその昼も薄暗い部屋に現れたのか、いまはもう覚えていないけれど、そこに写し出された数々の古代遺跡の風景に、私は魅入られていた。とりわけ一木一草もない谷間に林立する尖塔状の奇岩と、その内部に洞窟を掘って閉じこもったふしぎな人々に。  トルコ中部アナトリア高原のカッパドキア地方。四世紀頃からキリスト教の修道士や隠者たちがその奇岩の洞窟に住んだ、と写真には説明がついていたが、いまは無人のまま岩に穿たれた洞窟の入口が髄髏の口のようだ。どんな人たちがこの奇怪な岩に棲みつき、不毛そのものの地を生きて死んだのだろう。何を考え、何を祈り、何を待ったのだろう。ヘレニズム世界の崩壊の地鳴りの中で。  夜更けるにつれて、いっそう台風のうつろな目のように不気味に静まり返る東京中心部のコンクリートの谷底で、私は幾夜となく茫々と、濃い思いでそう考えた。  そうして地上の距離と歴史の時間を越えて、自分でもよくわからない強く身近な思いを覚えながら、部厚い鉄筋コンクリートの冷えがしみこんでくる部屋の隅の仄暗がりに、|頭巾《フード》のついた羊毛粗織りの灰色の長衣に身を包んだ男がひっそりと蹲っている気配を感じたのだった。  ある日、勤め先の新聞社の編集局長から、日曜版のフロントページ用に世界の秘境・奇景を訪ねるシリーズの一部を担当するように、といきなり命じられ、私はめまいのような心の揺れを覚えた。直ちにカッパドキアを思い浮かべた。顔の見えないあの灰色の粗末な長衣の修道士風の幻像が呼び寄せたような偶然だった。  トルコ族はファンタスティックな民族だ。もともと中国北方のモンゴル高原にいた遊牧民で|烏孫《うそん》、|鉄勒《てつろく》、|突厥《とつけつ》などと呼ばれ、十世紀以後、中央アジアから遠く西アジアへとはるばると大移動して、中近東全域に及ぶセルジューク帝国をつくったのち、オスマン帝国として十五世紀に東ローマ帝国を滅ぼし、北アフリカからバルカン半島にまで広がる。そして現在は騒がしい中東地域の一角にひっそりと住んでいる。  文化的にはペルシアの、宗教的にはアラブの影響を強く受けながら、アジアの西端に住むウラル・アルタイ系語族のモンゴロイド。私はそれほど多くの国に行ったわけではないが、トルコほど日本人への親愛の情を感じた国はない。イスタンブールの街頭で「日本人ですか」と身なりのいい紳士が丁重な英語で話しかけてくる。男の客しかいない地方の村の薄暗い茶店でも、私が日本人だとわかるとしきりに紅茶をおごろうとする。遠く離れてきたモンゴロイドの血への郷愁のように。  食域の狭い私も、トルコの料理だけは田舎町の路傍の食堂でも食べられた。見事に血抜きされた柔い羊の肉、赤っぽいが辛くないソースのかかった豆の料理。地方のどこの小ホテルでも決まったような朝食——焼きたてのバゲット風のパン、羊の乳の白チーズ二切れ、それに塩漬けオリーブの黒い実五個。  イスタンブールで、英語がひと通り通じる中年の運転手つきの車をチャーターすると、街の見物もしないで早々に出発した。エーゲ海岸沿いに南下し、伝説の地トロイを経て、古代ギリシア植民地エフェソス(現在のエフェス)に着く。ここは人類哲学史の曙光とされるいわゆる自然哲学者のひとりヘラクレイトスが住んだ地だ。若い頃から『初期ギリシア哲学者断片集』(山本光雄訳篇)という書物を時折拾い読みしながら、最も興味をひかれてきたのが彼だった。  またここには古代地中海世界の七不思議のひとつ、アルテミス女神の大神殿があった。桁はずれにヘンな男がこの町にいて、この大神殿に放火して焼失させれば自分の名前は永遠に歴史に残るだろうと考え、それを実行した。事実、確かエロストラートというその男の名前を私も知っている。  ヘラクレイトスも非凡なヘンな人だったらしい。新しい法律をつくってほしいとエフェソスの人々に求められたが、肩をすくめて断り、アルテミスの神殿の庭で子供たちとサイコロ遊びをしていたという。人々が集まってくると「きみらと一緒に政治に与かるより、こんなことをしている方がよっぽどましだと言った」と残存する断片は伝えている。  また別の断片には、彼が宇宙論、政治論、神学論の三部から成る『自然について』という本を書いてアルテミス神殿に奉納したが、「その力のある人々だけが(その本に)近づくように、わざと不明瞭に書いた」と記され、「彼がある部分を中途半端に、またある部分をごったまぜに書いたのは、憂鬱性のせいだ」という意見もあったことが伝えられている。さらに「彼は誰の弟子にもならなかった。自分自身を探求して、すべてのことを自分自身から学んだ」と記した断片もある。  アルテミス神殿の跡は、いまのエフェスの町から少し離れた街道わきにあった。シミだらけのイオニア式の大理石の柱が一本立っているだけで、倒れてバラバラになった大理石の破片が石畳の上に散乱していたが、ここでヘラクレイトスは子供たちとサイコロ遊びをしていたのだ、と鬱屈した彼の心が二千五百年という時間の隔たりを越えて、いまもその古びた円柱のまわりに漂っているかのように身近だ。「憂鬱性」は決して近代の、世紀末だけの病ではない……。  残存する遺跡から見て、古代エフェソスの市街は広くはない。円形劇場はほぼ原形をとどめているし、大理石の建物の前面も結構残っているし、集会広場を取巻く円柱の列も折れたり欠けたりしながらも連なっている。何よりも往時を偲ばせるのが見事に敷きつめられた白い石畳の街路だ。その石畳の上を私はゆっくりと、幾度も往復した。ヘラクレイトスもこの同じ敷石を踏んだのだ、と呟きながら。 「この世界は、神にせよ人にせよ、誰が作ったものでもない、むしろそれは永遠に生きる火として、決まっただけ燃え、決まっただけ消えながら、常にあったし、あるし、またあるだろう」——この地で、語ったと伝えられているそんな彼の言葉の断片が、私の内部から聞こえ、白衣に革のサンダルをはいた長身白髯の幻影が俯いて遠ざかる。 「人は理性をもって言動しなければならない」と彼が語ったとき、何に対してそう考えたのか、現代のエフェスの町の小さな博物館に、その答えがある。  古代のアルテミス女神の模像がそこにあった。高さ二メートル半ほど、両手を前に差し出した直立の白い大理石像(大神殿に立っていた原像ははるかに巨大だったろう)。端麗な女性の顔が妖しい微笑をたたえ、顔の両側と腹部から脚の正面に、坐りこんだ牛とライオンの小さな浮彫像が何十と隙間なく並び、胸にはざっと数えて実に二十箇余の乳房が突き出ていた。ギリシア神話のアルテミスは山野で狩りをする処女神だが、この像は明らかに原始の大地母神像だ。細部はヘレニズム彫刻の洗練された作りだが、胸一面に並んだ駝鳥の卵を思わせる乳房の群はおぞましい。  さらに近くの丘の、石を積み上げた小さな教会の奥には全身真黒の聖母マリア像があって、いまも花が捧げられていた。聖母マリアが晩年この地で過し、ここから昇天したと伝えられているが、ベールをかぶったこのマリアも濃く大地母神の雰囲気である。  人類最初の理性的思考の地には、白と黒の大地母神像が崇められていた。その長く暗い呪術的伝統と戦いながら、「自分自身を探究する」個人の理性的思考はつくられたのだ、地中海的明噺などと単純に言えるものでは決してない……という思いに沈みながら、この旧ギリシア植民都市の廃墟の地を去る。俯いて石畳の街路を歩く哲人の幻影と、どっしりと立つ白と黒のふたつの大地母神像の異様な印象とが重なり溶け合いまた分かれて、私の心の視野を重く揺れた。  エーゲ海岸地帯を離れて中部高原へと方向を変えて走る道路の両側には、リンゴの木ほどの高さの木が連なり、白い花をつけ始めていた。あのきれいな花は何だろうと聞くと、「アーモンドの花」と運転手は答えた。  二週間の契約をした運転手は、年齢四十歳、小柄で丸っこい体型、髪は黒く鼻の下にチョビひげ、一見小企業の実業家風の落ち着きのある男で神経質ではない。必要以外に口はきかないが陰気ではない。  その彼が運転しながらふと言った。 「この道路はアレクサンドロス大王の軍隊が通った古い街道だよ」  エーゲ海岸地帯を離れると、いつのまにか道路の両側に山脈が連なっていた。山々の頂には残雪が光っている。道路と山脈との間は、縁色の部分と地肌が黄色く乾いたままの部分とが半々ぐらいの割合で入りまじっている。ところどころに白塗り煉瓦造りの農家があり、まわりに青黒い糸杉が何本も天を指している。煉瓦色のスレート屋根の家屋が集まった小さな町もあり、イスラム寺院の|尖塔《ミナレット》がくっきりと高く白い。今夜は「パムッカレ」と呼ばれる街道筋の奇景の地に泊まる予定にしている。  夕暮近くなってパムッカレが見えてきた。トルコ語でパムックは綿、カレは城の意味という。出発前に旅行案内を調べながらカッパドキアへの途中に立ち寄ろうと計画してきた二番目の場所。街道を挟んで、残雪が光る山並と向かい合うように、反対側の山の中腹の一部が真白に輝いていた。 「綿の城」である。だが車が街道を左に折れて麓の道路を登ってゆくにつれて、それは植物ではなく剥き出しの鉱物の形成物だと、はっきりわかってくる。山の中腹に湧き出す泉の水が崖を流れ落ちながら、多分何万年もかかって石灰分を大量に析出したものだ。ただしそれだけなら世界各地に幾らでもあるだろう。ここが古代世界から有名だったのは、石灰分の白い崖が階段テラス状に、あるいは山畠の段々畠状に、直径二、三メートルほどの半円形の水盤が、高さ約二百メートルにわたって、まるで人手が作ったように順序よく重なり連なっているためである。しかも何百箇とひと目では数え切れない水盤の半円のすべての縁から、石灰分のツララが隙間なく垂れ下がっている。褐色の山腹の一部にだけ忽然と出現したその光景は、華麗に幻想的だった。夕日が水盤のひとつひとつの水面に、無数のツララの一本一本にきらめいていた。  崖の上で車を降りて、夕日の光が下方の水盤からひとつずつ消えてゆくのを、私は声もなく見下ろした。それから山腹の小広い平地に建てられたバンガロー風のモーテルに入った。輪になった部屋の並びが、差渡し三十メートルほどの池を囲んでいる。池からはうっすらと湯気がたっていた。この温泉の湯があの幻想的な白い水盤の崖を析出したのだとわかった。  運転手とふたりで食堂で夕食をとったあと、私はひとりパンツ一枚になって池に入った。まわりのモーテルの部屋の明りのほかに、池の岸にも幾つかの電灯がともっているが、電灯の光は弱く水面は仄暗い。池は深いようだった。私は平泳ぎでゆっくりと水面を泳いだ。他にも白人の観光客が二、三人池に入っていて、ドイツ語らしい話し声が聞こえたが、池は十分に広い。  途中で足を下ろすと、足の裏に固い物がさわった。岩にしては表面がざらついていなくて妙に滑らかだった。どんな岩だろう、と水面の下を覗きこんだ。何かがぼんやりと白く見えた。岩ではなかった。大理石の円柱の一部。円柱が倒れて、幾つもの円筒に分かれたそのひとつだった。  その上に両足をつけ、顔を沈めて水中を見まわした。一面に散乱しあるいは積み重なった大理石の建築物の死骸だった。明らかに神殿風の装飾円柱の部分。浮彫がかすかに見分けられる|破風《はふ》の一部、壁の破片が、黒い水底にひっそりと沈んでいた。 <私は倒壊した神殿の上を泳いでいる>  ふっくらと円く滑らかな大理石の柱は、仄暗くなま暖かい水中で、異様になまめかしい。まるで女神像の一部のようにさえ感じられる。 <私は水死した女神の散乱する死体の上を漂っている>  気味悪く涜※[#底本では「さんずい+賣」、第3水準1-87-29→78互換包摂 涜]神的で、ひきこまれるように甘美で、その甘美さがさらに気味悪い。ドイツ人の観光客たちは出ていったようで、温泉池の中は、いつのまにか私ひとりになっていた。池の岸近くの消えた部屋のどれかから、不意に泊り客らしい女性の甲高い声が水面を震わせるようにひびいて、また山腹の夜の静寂に戻る。何時間か前に見たばかりの二十の乳房をもつ女神像の、瞼を開いていながら瞳のない目、見る角度の少しの違いで、限りない慈愛をたたえているようにも、残忍な薄笑いを浮かべているようにも見えた妖しい表情が蘇る。誘うように開かれていた両腕。胸の二十の乳房が水中を揺れる……。  自分自身の無意識のねっとりと暗い深みから、自分を思いきって引き抜くようにして池を出た。途端に高地の夜気が肌にしみた。  部屋に入って手早く衣服を着こんで食堂に戻る。運転手は食堂の隅でモーテルの従業員らしい男たちと一緒に、テレビを見ていた。画像不鮮明な黒白テレビの画面では、頭にターバンを巻いた昔のトルコの男が半月刀を振りまわしながら馬を駆って荒野を疾駆していた。男たちはテーブルの上に身を乗り出して、笑ったり手を叩いたりしている。  私の運転手は酒ビンを手もとにおいて飲んでいた。ラクというトルコの透明な強い地酒で通常水で割るのだが、水と混ざると白く濁る。彼は空いているコップを私の前において、少しだけ透明なラクをついでからアルミのヤカンの水をたっぷり注いだ。水はたちまち白くなった。  私は急いでひと口飲んでから小声で言った。 「温泉池の中に神殿があった。女神の」  彼は声を立てないで笑った。 「女神じゃない。|水の精《ニンフ》の祭殿」 「ばらばらに壊れてた」 「地震で。昔のことだが、何度も。それでヒエラポリスも減んだ」 「ヒエラポリス?」 「この台地にあったローマ時代の都市だよ」  観光客専門のこのハイヤー運転手は、ガイドも兼ねている。 「有名な郡市でしたね。クレオパトラ女王もわざわざ遊びにきて、この温泉に入ったと言われてる。アントニウスと一緒に」 「あのクレオパトラが……」  急なラクの酔いとともに、エリザベス・テイラーが演じた映画のクレオパトラの妖艶な映像の記憶が見え隠れする。この男のガイド的知識が本当なら、私はあの古代エジプト最後の女王と同じ温泉に入ったことになる。だからあの池には女性の気配が濃すぎるのだ……。 「モーテルの後には地震で壊れたヒエラポリスの廃墟がそのままあるよ」  とベテランの運転手兼ガイドは落ち着いて言った。  テレビ見物の男たちが急に歓声をあげた。おヘソがのぞくトルコの古い民族衣裳の若くきれいな娘を、半月刀の男が馬上に抱きあげて走っていた。トルコの時代劇なのだろう。時代感覚が乱れて、遠く離れた幾つもの過去の時代が重なり合った。  私はコップからもうひと口ラクを飲んでから、立ち上がって言った。 「これからその壊れた街に行く」 「真暗だよ」  と運転手は言ったが止めはしなかった。男たちのひとりに何か言った。男は食堂を出てすぐに戻ってきた。男が持ってきた大型の懐中電灯を渡しながら、「注意して」とだけ言った。  少し脚がふらつくが歩くことはできた。よろめいているのは現実感の方だ。崖に沿って積み重なる水盤の最上段がぼんやりと白く見えるほかは、本当に真暗だった。荒れた道の先に、かなり大きな建築物らしい黒い影が幾つも静まり返っている。エフェソスのようには手入れされていないらしい古い石畳の道は荒れ放題で、雑草が傾いたり割れたままの石板の間から生い茂っている。  少し闇に目が馴れると、狭い台地の奥、山の斜面の下に、円形劇場らしい丸く積み上げられた石の堆積がかすかに見え、道の近くに凱旋門風のアーチが崩れ残っていた。だが懐中電灯の光を当てると、積み上げた石材はずれて隙間だらけだった。アーチの形をかろうじて保っているのがふしぎなくらいだ。それにこの都市の石材はエフェソスのように滑らかに白くなく、ざらついた暗い褐色。懐中電灯の明りの範囲は不鮮明に小さいが、どの方向に向けても崩れたあるいは崩れかけた暗褐色の石材の堆積と散乱だけ。  廃墟のにおいというものがある。乾いた土地の石造りの都市や建築物の場合、直接鼻腔を刺す臭気はないはずなのに、減亡のにおい、荒廃の気配が、ひしひしと全身の気孔を通してしみとおってくる。そこには壊滅をもたらした戦乱や自然災害の轟音や唸り、逃げまどう人々の悲鳴、叫び声などの音、住み馴れた都市や家を棄てて去る人々の痛苦の思い、焔の色、血の味などもまじり合っているけれど、そうした有形有情の知覚を超えた、無機質の、一種形而上的なにおい。本来のカオスに還った物質そのもののにおい。  人影がすぐ傍まで近づいていたことに、私は全く気がつかなかった。いきなり意味不明の、それも険しい言葉が背後から聞こえた。振り返ると二つの人影が立っていた。立っているだけでなく、ひとりは自動小銃を腰のところで構えて銃口を私に向けていた。相手も懐中電灯を持っていて、私の全身を照らしながら、またトルコ語らしい言葉をきびしく言った。  私はモーテルの方角を指さし、そこからここに来た、と手ぶりで示した。こういう思いがけない苦境には、ベトナムの戦争特派員だったころ何度も遭遇している。闇の中では人は過度に神経質になるので危険だ。  わかったようだった。「パスポート」と緊張した口調で言った。温泉から出て肌寒かったのでサファリジャケットを着こんだのが幸運だった。内ポケットから旅券を出して手渡した。相手は懐中電灯の明りで私の旅券を丹念に調べていたが、急に態度が変った。 「ジャパン?」  運転手から教わったばかりの僅かなトルコ語のひとつで答えた。 「エヴェト」  イエスという意味だ。  相手は懐中電灯で自分の帽子の徽章と胸のバッジを照らして見せた。声から想像したよりもっと若かった。兵士か武装警官らしい。それから手ぶりと身ぶりを繰り返した。このあたりに、拳銃をもった悪い人間がうろついている、あなたは早く宿に戻った方がいい、という意味らしいと了解した。 「テシェキュール(ありがとう)」と礼を言い、「アラハ ウスマルラドゥク」と難しい発音の別れの言葉を、かろうじて言って、手を振りながらモーテルの方向に歩いた。  こんな夜の廃壗の中で武装警官につかまりかけたことも、簡単に釈放されたことも現実感がなかった。浮き浮きした気分になる。かろうじて立ち続けている凱旋門アーチのところまで引き返してから振り返ると、若い武装警官の懐中電灯の明りは崖の上を遠ざかって消えた。私は向きを変えて廃墟のさらに奥の方へと戻った。  荒れ果てた石畳の道が続き、大型建築物の跡が減って雑草の茂みが増えた。ヒエラポリスというこの亡んだ都市の名はどういう意味だろうと考えた。ヒエログリフというギリシア語由来の、禅聖文字という意味の言葉がある。ヒエロ……というのは聖なる、とか神官の、という意味だった気がして、ヒエラ……の意味が確かにはわからないまま、勝手にここは「神聖都市」という名前だったことにする。それにしてもなぜここが神聖なのか、クレオパトラまで遠路わざわざ入りにくるほど有名だった温泉、その岸の|水の精《ニンフ》の祭殿のためか、あるいは後世トルコ人たちが|綿の城《パムッカレ》と名づけた、あの純白の水盤と下向きの石筍が連なる神々しいまでの崖のせいだったのか。  闇が濃くなり、廃墟の気配がいっそう透きとおって感じられ、ほぼ真直の道路がいつのまにか石畳ではなくなっていた。懐中電灯で両側を照らすと、道に沿って丈の低い半地下建てのようなとても小さな家が並んでいる。どれも頑丈そうな部厚い石造りだが、石板の屋根がずれているところがあり、完全に屋根が地面にずれ落ちて、細長い四角の小部屋がからっぽのまま内部を剥き出しにさらしているところもある。さらに小部屋の本体そのものが地面から押し上げられているところもあった。  小部屋の半分が地面にめりこみ、他の半分が地上に高く持ち上がって、ほとんど四十五度の角度で斜めになっている前に来た。そしてやっと気付いた。石の細長い小部屋と見えたのは古代の石棺だ。ここは墓地だった。だが墓地の陰気さが全く感じられない。死者や死霊の気配が微塵もないのは、大地震によって墓地の形態そのものが壊されて廃墟一般と化し、そのうえ棺内部の隅夜まで一物も残らぬ完全なからっぽだからだろう。  武装強盗と間違われて銃を腹に突きつけられたあとの陽気な気分が尾を引いていた。二千年前の石棺。懐中電灯の明りでよく確かめてから、斜めになって蓋のない棺のひとつに、私は入りこんで構たわる。何という大きく頑丈な石の箱だろう。石棺の傾いた下端に両足をつけて、頭の先になお一メートル余裕があり、幅は私の体を三箇は収められる。暗い地中深くではなく、上体は宙に突き出ている。顔は斜めに空に向いていて、星々のきらめきが高く固い。  神聖都市の墓地。仄暗い温泉池のなま温かい水中で、ひきこまれるようだった妖しく濃い気分が急速に薄れてゆく。星空に向かって開いた石棺の中は、思いがけなく安らかだった。懐中電灯を消した。時間も消え、静寂さえ気化し、そして地ひびきのような音、多数の人間の重い足音が棺の内側にこもって聞こえてきた。  夕方運転手が言っていた、東へ、ペルシアへ、インドへと向かうアレクサンドロス大王の遠征軍の足音に違いない。大きな厚い楯と長い槍をもって甲冑で身を固めたマケドニアの重装歩兵密集部隊が、崖の下の街道を行進してゆく。腰の短剣が触れ合い、甲冑がきしむ音。陣中で夜々ホメーロスの『イリアス』を読んだという、アリストテレスの愛弟子の若い大王に率いられた歩兵三万と騎兵五千の長い長い列。  それはギリシア文化の理念が、古代オリエントの専制帝国の版図に広がる音。振り返られた歴史ではなく、歴史そのものが創られるナマの地鳴り。個人の生死、一都市の運命を超えるその重いリズムが、神聖都市の廃墟の墓地の、石の永遠と共鳴し続けている。  翌朝、廃墟を乗せた白い崖を降りて、アレクサンドロス大王の軍隊が通った山間の街道を、私たちは車でさらに東へ走り続けた。山々は高く険しくなり、街道はその間を屈曲して、老練な運転手も緊張し続ける。山々の頂が幾度も灰色の雨雲に隠れた。  その夜遅く、中部高原の古都コニヤに宿泊。十二世紀セルジューク・トルコ帝国の首都となった大きな街だが、山間の街道で疲れきって、私は少量、運転手は多量のラクを飲んでそのまま寝た。  翌日、いよいよ目的地のカッパドキア地方に入る。イスタンブールを発ってから四日目、距離にして千五百キロを越す道を走っただろう。黒海と東地中海に挟まれてエーゲ海に突き出したトルコ半島のほぼ中央部。乾燥した高原地帯で、エーゲ海岸とは風景も空気の感触も全く異る。地中海世界ではなく、ユーラシア大陸の西端という感じ。住民の体形や顔立ちもギリシア風が薄れて、モンゴリアンの感じが多くなった。  オリーブの林はなく、アーモンドの花も咲いていない。青黒い糸杉に代って同じように細長く天を指すポプラが道路端に並び、まだ芽を出していないポプラの細い裸の枝に、私は少年時代の朝鮮半島を強く懐しく思い出す。高い山はなくなったが、コニヤからの道程はまだかなり長かった。東京中心部のビルの谷底で夜毎に育てたカッパドキアの想像風景がいよいよ濃くなって、途中の窓外の景色はほとんど目に入らない。 「やっと来たよ」  と運転手が車を停めてハンドルに両手をついたのは、両側を切り立った断崖に挟まれ、その間に小さな川が流れ、流れの傍にポプラがかたまって生えている谷間だった。高さ数十メートルもある崖の半ば近くまで、点々と穿たれた洞穴が数え切れないほど見えた。だがその洞穴のほとんどは住民たちの住居になっていて、原色の多い服装の女たちの姿が、しきりに見え隠れした。崖の小道を下の小川から水を運び上げる女たちも多い。活気があるとは言えないが、生活のにおいがしみついている。 「これがカッパドキアか」  と私は失望しかけた。 「ここはまだ入口だね」  運転手は私の性急さを軽くたしなめるように微笑して、のんびりと言った。  予約しておいたカッパドキア地方中心部のホテルのあった町が、ネブシェヒールだったかユルギュップだったか、覚えていない。というより小さな町の名前など意識になかったように思う。中程度の設備は整って、しかも観光ホテルのいやらしさのないさっぱりと気持ちのいい宿舎だったことは記憶に残っている。  ホテルにトランクを置いて、すぐにまた車で出た。 「カッパドキア」というのは古代ローマ人が名づけた広範囲の地域名であって、点としての地名ではない。私が写真で見て驚いた尖塔状奇岩の谷は、幾箇所というより幾十箇所にも不規則に分散してあるのだった。 「あのヘンな岩のある谷に行ってくれ」  と言ったとき運転手が当惑したのも当然だった。 「谷は幾らでもある」  と運転手兼ガイドは咄嗟の判断に迷ったときの癖で、あいまいに笑った。 「じゃあ、どれでもいいから、日の沈まないうちに行けるところへ」  と私は幾分苛立って言った。だがどの方角に走ったかわからぬままに、よく舗装された道路の前方に急に広い谷間が開けたとき、苛立ちなど一瞬にして消えた。  正確には谷間ではない。山はない。上の方が広く平坦な台地が広がっていて、そこが本来の地面で、その一部が雨水に浸蝕されて低くなったところ。その台地と浸蝕低地との間の斜面に、円錐状の岩の群がびっしりと林立しているのだ。  ちょうど夕日が広い低地の奥の方に沈みかけていて、その光がゆるやかな斜面を一面に照らしていた。多分岩が白っぽいのだろう、夕日の中の尖塔状の岩群は、ピンク色に色づいて見える。最初の崖と異って、人が住んでいる気配は広い低地のどこにもないが、東京で想像した凄然と荒涼たる光景とも少し違っていた。  岩の塔がそそり立つ斜面の下までは近寄らなかった。広い遠望を夕日の光が翳るまで、車を停めて眺めた。道路端の雑草は枯草のままで、目に見える全体が乾いて粗い岩と土ばかりだったが、それが穏やかになまめいても感じられるのは、春の遅い高原地帯にも新しい季節が訪れ始めているせいだろう。  数え切れぬ奇岩の並ぷ風景が、初めてなのに初めての気がしなかった。確かに異常で奇怪なのに、懐しいという気分が自然に湧いてくる、意識の最深部から記憶を超えて。  その夜、運転手は透明な酒がひとりでに白濁するのを楽しみながらラクを何杯も飲み、私は地元でとれる酸っぱい葡萄酒を何杯も飲んだ。車の窓から見かけた荒れて乾いた地面を這う葡萄の木。棚はない。  旅行案内書によると、この近くの火山が何百万年か前に大噴火を起こし、火山灰がこの地域全体に降り積もり、長い年月かかってそれが凝灰岩の厚い層となった(あの平坦な大きな台地の平面がその層の表面らしい)。さらに長い年月のうちに乏しい雨水が地層の割れ目や隙間からしみこんでもともと脆くて粗い凝灰岩層を浸蝕し、幾らか固い部分だけが残って雨に洗われ続けて、頂の尖った円錘形の凝灰岩峰群ができた。  翌日は終日、運転手の気の向く方角に車で走ったのだが、運転手自身も幾つの尖塔群の斜面があるのか、どの方角に行けばあるのかくわしくは知らない。道路は舖装された部分もあり、舖装のない曲りくねった茶色の土の道もある。台地の上の平坦な道があり、斜面の坂道があり、低地の水の涸れた川底のような道もある。百キロ四方ぐらいの地域を端まで走った気がするが、同じ地域をぐるぐるまわっただけのような気もした。  地図上の整然とした平面の感覚は忽ち消失した。方位の知覚も乱れた。台地上の舖装された道路の途中には幾つもの人家の集落があり、葡萄畠もあり家畜もいて、そこだけを眺めまわしていると、その日が雲ひとつなく晴れ上がっていたためもあって、地味肥沃とは言えないけれど一応穏やかな農牧混合の高原地帯としか思えない。だが学校帰りの子供たちが鞄を抱えて歩き、老人が牛を曳いてゆく道を走りながら、ふと台地の下を見ると乱立する無人の尖塔群が日ざしに輝き、尖った影が交錯しているのだ。大気による風化作用のない異星の地表にいきなり降り立ったみたいに。  さらに進むと斜面を下る道があって低地に下りる。地下水に近いせいか新芽をのぞかせ始めたばかりの一列の木立があり、その向こうの斜面にはアメリカ・インディアンの先の尖った獣皮のテント群そっくりの光景が浮かび上がる。見える限りの台地の表面が真っ平らなだけに、岩峰群の頂がすべて真直に天を指しているその垂直のヴェクトルの密集が、目に、肌に、心に刻みこまれ焼き付けられるのである。  同じ凝灰岩の塔といっても、日ざしの角度によって、あるいは岩そのものの粗密の差ないし了解不能な岩質の違いによって、場所毎に岩峰群の色が微妙に異る。骨の列のように白々と乾ききっているところがあり、砂岩に似た明るい茶色の場所があり、陰々と暗い褐色の谷間がある。何のせいか全く想像もつかない草色を帯びた岩峰の斜面、不気味に青白い色彩に一面染まった場所さえあった。  岩の高さも三、四十メートルに達するゴシック教会の尖塔群そのままのもの、三、四メートル程度の小型のものまで様々だが、場所毎に高さはほぼ一定している。単に頂が尖っているだけでなく、その上に丸い岩をのせたような、マツタケ型の岩もある。  そんな色や形や高さや一群の数の違いを見せながら、基本的には円錐形の凝灰岩の林立する斜面ないし谷底が、全く不規則に散在している地域。次々に走りめぐるというより、至るところで出合い頭にそんな光景にぶつかり続けていると、この一画に、大地そのものの反重力、天へと伸び上がる力が密集しているように思われ、自分の体の中、意識の奥からも同じ天への志向が、頭蓋骨を突き破ってタケノコのように伸び出す気さえした。  だがそれは単に天然の奇景だけではなかった。少し注意してみると、その自然の尖塔には明らかに人工の四角な穴があいている。全部の岩にではない。全く穴のない場所が幾箇所もあったが、まるで髑髏そっくりに下部に口を思わせる黒い穴、中程にうつろな眼窩そのままの小さな穴がふたつ並んで穿たれた岩が、数十も集まっている斜面が何箇所もあった。ここには確かに人間が、それも想像以上に多数の人々が岩に洞窟を掘り抜いて住んだのだ。  とりわけ洞窟の入口と窓の穴が目立つ岩の多い斜面の下へと、私たちの車は苦労して降りた。荒れて乾いた地面。いじけた雑草が苔のように地面にしがみついている。刺だらけの茨がかろうじて生きている。結構人が通れる小道が残っている。南向きの斜面らしく昼過ぎの日ざしが岩の表面のざらつきを、背後の斜面の砂状に風化した土粒のひとつひとつを照らし出している。そして入口と小窓の穴がぽっかりと黒い。  地面から十段ほどの石段も刻み出されていた。その角は風化している。人ひとり立ったまま十分に出入りできる長方形の出入口。中に入ると六畳ほどの四角の空間。入口から日ざしが射しこんで遠くから見たほどには暗くない。目が馴れるにつれて、四方の壁に、ゆるい丸天井に、岩を掘り抜いた|鑿《のみ》の痕がひと打ち毎にはっきりと見分けられた。浸蝕を免れた岩は周囲より固い部分だったのだろうが、本来凝灰岩の組成は脆く、鉄製の鑿ひとつあればひとりでも掘ることはできそうだ。  入口の部屋はがらんとして何もない。木製の道具類があったとしても、朽ち果てるのに十分すぎる時間がたっている。奥に小さな階段が掘り抜いてあった。上体を屈めねばならないほど低く狭い。のぼると二階も部屋になっていた。下の部屋より小さい。一隅に寝台らしく一段高くなった細長い長い場所が設けられ、反対側の壁に四十センチ四方ほどの小窓が外に開いている。  一日に幾度も脆いて礼拝するほど熱心ではないが、一応イスラム教徒のトルコ人運転手は、キリスト教徒の遺跡には全く興味がない。塔の外をぶらついて待っているのが窓から見える。階下に比べて二階は意外なほど明るかった。午後の日ざしが掘り抜きの小窓から真直に射しこんで、鑿の痕だらけの粗い床の面に乱反射して岩屋いっぱいに広がっている。  寝台に使われたらしい横長の凹みに腰をおろした。数年前、中国北部の乾燥地帯で山腹をえぐり掘って、そこに木の柱や板を使って部屋を作り、ガラスもはめこんで、住民が生活している場所を見た。インドでは奥に仏像を祀った石窟群も訪れたことがある。だがここには岩窟の中に何もない。本当に何ひとつないのだ。ただ明るくからっぽなだけ。そのために、インドの岩窟の陰気さはなく、妙におしつけがましく威圧的な暗さもない。前後左右上下、ただ粗い組成の岩の単純な沈黙。  だが遥か東京の高層ビルの谷底で毎夜想像していたその場所にいまいるのだ、という信じ難い思いの興奮が鎮まるにつれて、壁面や床に刻みついている鑿のひと打ちひと打ちの痕を目で追いながら、ここを先端が硬く尖った金属棒で掘り広げては、岩の破片を外に運び出し続けた少なくともひとりの人間がいたのだ、と次第に強く実感されてくるのだった。  それはヘラクレイトスがこの石畳の街路を歩いたのだ、クレオパトラがこの温泉に入ったのだ、という実感とは、少し質の違う感動だった。ヘラクレイトスはみずから石畳を敷いたのではなく、クレオパトラも温泉のまわりの石を並べたのではない。だがこの岩窟は、名前を知らない男が、自分の手で掘り抜いたものだ。彼の肉が岩とぶつかり岩を砕いたその痕が、そのままに残っている。  ぼんやりとひとりの男の姿が淡い影のように浮かぶ。だが顔がない。肩幅も身長もわからない。髪の色さえ見えない。ぼんやりと運転手の顔と髪の色を思いかけたが、すぐにそれは違うと気づいた。彼はトルコ人だが、紀元後数世紀の頃、この不毛の奇岩の谷に住みつこうとしてこの岩の部屋を掘ったのは、ギリシア人かあるいはシリア人、ユダヤ人か、初期キリスト教徒だったことは間違いない。だが私はギリシア人を知らない。いまのギリシア人は古典期のギリシア人とはかなり違っているといわれるのが事実なら、この谷に来たギリシア人の風貌はもっとわからない。  顔も体つきもわからぬ男が、向こう向きに、頭には長衣とつながった|頭巾《フード》をかぶって、長衣の裾もフードも岩の粉にまみれて、床に膝をついて鑿を打ちこんでいる。壁を広げている。荒い息遣い、汗の臭い……。  いまならよくわかる。その姿は後年、手術直後の夜々、病室の窓外に見た幻覚の人々とそっくりだったことが。顔も名前もはっきりしないが、遠いいつかどこかですれ違ったことのある気がする懐かしい人。意識の記憶を超えたふしぎな現実感。  そうだ、顔も名前も髪の色もわからないが、ただひとつ、その男がなぜこのような岩の中に住みつこうとしたか、その意志を私は知っている。岩は丸くても角張っていてもだめだ。インドの石窟寺院のように大きな崖の中途でもいけない。それは個々に頂が尖って天を指していなければならない。直立する巨木の|洞《うろ》でも、木造の塔でもいけない。外界と隔絶された硬い石の尖塔。  ここカッパドキアの凝灰岩の奇岩群は、まるで天が準備してくれたようなものだ。そんな、ふしぎな場所が、ローマ世界の東の端にあるそうだといううわさを伝え聞いたときの、ここまでの長い山間と高原の道を歩き通して、やっとうわさに聞いた以上の神秘的光景を眺め渡したときの、水も食物もほとんどない不毛の火山灰台地で、何か月もかかって岩窟をひとりあるいは数人で掘り抜いて、そうしてついにこの石の寝台に腰を下ろしたときの、彼のよろこびと心のたかぶりを私は感じとることができる。まるでもうひとりの自分のことのように。  彼が掘り続けた鑿の音とそのこもった反響が、意識のはるかな奥で聞こえる。壁に小窓を掘り抜く最後のひと打ちで、ここに射しこんだ最初の光が見える。あるいはそのひと打ちは夜のことであって、ぽっかりと穿たれた穴から星々の幾つかが見えたのかもしれない。ここに射しこんだ最初の光が昼の日ざしであろうと、深夜の星の瞬きであろうと、彼がその瞬間、床に脆いて石の粉だらけの頭を垂れ、|肉刺《まめ》がつぶれた血だらけの両手を組んで、天に祈ったことを、私は自然に想像できた。  ぎりぎり彼をこの最果ての谷に導き、岩に穴を掘らせ、この場所で死なせたものは何だったのか。彼ひとりではない。当初は何百人程度だっただろうが、やがては何千人、セルジューク・トルコの大軍がアナトリアに進出してきた十一世紀頃には、この一帯の奇岩の谷の住人は一万に達していたともいわれている。ローマ帝国が東西に分裂した四世紀頃からと書物には書いてあったが、古代ギリシア・ローマ文明が崩壊し始めたもう少し前の時期から、最初の人たちはここに来はじめていたに違いない。  単に時代の政治的社会的混乱を逃れてきたとは思えない。避難地としてはこの地は余りに不毛すぎる。谷々の岩の頂が鋭く天を指しているように、心の中に天への想いを強く激しく抱いた人たちがこの谷々を選んだのだ。  ここに坐って改めてそう思う。  三日間、谷々をまわる。その間のホテルの部屋、食事などは一切記憶から脱落している。前述したように谷々の互いの位置関係、方位さえ意識にはなかった。思いがけなく次々と出会う谷間ごとの奇岩の光景に、そこに穿たれた岩窟に、そのすべての岩窟がいま無人なことに、私の意識は憑かれていた。  次第にわかってきたことは、この岩窟群がほぼ千年近い長期にわたっていて、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)を首都とする東ローマ(ビザンチン)帝国が安定した六世紀以後に拡大整備されたと思われる比較的大きく広い岩窟と、初期のままの原始的な岩窟との違いがあることだった。後期の広い岩窟は内部に幾本もの柱があり、ドーム状の天井があり、彩色されたビザンチン様式のキリスト教壁画がいまも残って、岩窟教会あるいは岩窟寺院と呼ばれ、主に西欧からの多くの観光客を集めている。だがキリスト教美術史上、それらがどんな意味と価値があるのか、私には知識も興味もなかった。頭部のうしろに光輪を負って眼の大きなキリストや聖母や聖人たちの、紫色と金色の多い聖画の前を私は素通りした。そこは少なくとも何十人も入って並べるほど広く、明らかに教会と聖職者という組織のにおいがした。  私が興味と共感と生々しい謎を覚えたのは、初期の、小さな、掘り抜かれたままの、ひとりないし二、三人程度しか住めない岩窟だった。そしてそのような古い岩窟で、私はけばけばしい聖書物語の彩色壁画ではなく、壁に刻みつけられたままのふしぎな抽象的記号を幾つも見つけたのである。  東京でも、この谷の写真を眺めながら、こんな尖塔状の岩を掘り抜いて住むほどの人間が、どんなことを感じ考えたか、孤独で単調な長い日夜に、その思いを何らかの形にして残したのではあるまいか、ということをしきりに想像した。それほど尖鋭に聖なるものへの思いに駆られた人たちが、聖書のさし絵のような絵を描くはずはない。たとえ十字架のキリストにせよ、何らかの具象つまりこの可視的世界の一事物の形を描くとき、絶対は相村化され、聖なるものは地上化、肉眼化される。従ってそれは何らかの抽象的な、地上物に対応しない図形ないし記号でなければならない、というのが私の想像的直観だった。  純粋に聖なるもののイメージ——それが私をこの地まで長途の旅をさせた最も強い理由だ。人間化されない、少なくとも聖職者組織による布教の、定例儀式の道具にダラクする以前の、最初期キリスト教徒たちの魂の原イメージ。  実は数年前に、私はオーストラリア中央部の|原住民《アボリジニ》の聖地のひとつ「エアーズ・ロック」の巨岩で、自然にできた浅い洞穴の壁に、何千年前のものという簡単な線刻画を見ていた。そこには大きくトカゲやヘビなどトーテム生物の輸郭画とともに、小さく二重三重の同心円記号がさりげなく刻みつけられていた。かなり離れた大岩の岩肌にも同じような同心円記号を幾つも見つけた。それは本当に単純正確な円そのものであって、肉眼で見る太陽や星を思わせる焔や光芒のようなものは全くなかった。それは恐らく単なる点を除けば、この地上の肉眼世界に対応物をもたない無意味な形、天上の太陽や月の本体にのみ対応する宇宙的な形だった(太陽系の惑星探査機ボイジャーが写した、暗黒の宇宙空間に浮かぶ惑星たちの球体の姿は、何と不気味に美しかったことだろう。  オーストラリアからかくも離れたトルコ半島中央郡の岩窟の奥で、同じ同心円の記号に出会おうとは。ただしここの同心円には、内側に四つ葉のクローバーの葉に似た+※[#底本ではクローバー型の十字記号]の形が刻まれたものが多い。もちろん中空の同心円だけもあり、四つ葉のクローバーだけのものも少なくない。縦横二枚ずつの葉の組合わせは確かに十字架の十字形とも考えられるけれど、小アジアからアフリカの北東部にかけて古来十字形が聖なる形として伝えられていた、ということをどこかの本の中で読んだ記憶があり、私としてはその基本的な太古の聖なる形の十字形から、キリスト教の十字架伝説、両腕を左右にひろげたキリスト磔刑のイメージも作られたように思う。  千年近く見棄てられた尖塔状の岩の内部の壁に、いまも残る沈黙の同心円、十字の形は、他に何の壁画も装飾もないがらんどうの岩部屋の場合、とりわけ印象が強かった。後期の岩窟寺院の内部には様々な装飾模様も描きこまれていたが、より古いと考えられる小さな岩部屋の内部は、小窓と階段と寝台の凹み以外ただ直方体ないし立方体の閉じた空間だけ。そこに壁の記号が、安易な感情移入も理解も共感も超えて、厳然と在る。その部屋を作り、その記号を刻みつけた人、および次々にここに住み継いだ人々の生死を超えて、この世界には絶対の、永遠の何かがあり、そのことが聖なることであり、その記号が聖なるものだ、と即座に感じられるのだ。  円はすべてを包みこんで安定する根源的なるもの、十字は垂直の縦軸と水平の横軸の交点あるいはその両軸に引き裂かれる人間意識の原型、という風に受けとることができようが、そういう思いつきを超えて、それらの形と記号は極限まで単純化されているだけに、それを刻みつけ、それを意味ある唯一のこととして生きて死んだ人々の精神の|勁《つよ》さと集中力がひしひしと伝わってくる。  同じグループや近隣のグループ内の他の個体との複雑微妙な関係への顧慮と感情なら、ゴリラやチンパンジーたちも十分にもっている。ごく簡単な道具もつくる。だが目に見えない彼方に意識の視点を移して逆にこちら側の全体を、自分自身も含めて考えること、考えずにはいられないことは、人間だけの営みであり、呪いでもあろう。そういうぎりぎりの人間意識の|徴《しるし》が、無人の岩窟の壁に刻みこまれている。ヒエラポリスの都市も神殿も大地震で倒壊したけれど、この石壁の記号は、人類が滅んだあとまでも残り、偶然にここを訪れた他星の生物も、彼らが十分に精神的であれば、この惑星にも精神的生物が生存したことを、この記号からだけでも即座に察知するに違いない。 (このトルコ旅行のまたさらに数年後、かつての大文明国ペルシアの地イランを訪れ、そこの博物館で古代ぺルシアのゾロアスター教の主神アフラ・マズダのシンボルを見たが、それは三重の同心円の両翼に鷹の翼、下部に尾羽がついた形だった。また腰の巨大な大地母神粘土像の、ヘソと両腿にもそれぞれ三重の同心円の印がついていた)  そうして私が谷に降り、岩窟内に聖なる記号を探し歩いて戻ると、トルコ人運転手は口に出しては言わないけれど、何でそんなつまらないものを探し歩くのか、という顔で退屈しきっていたし、台地上の道路で見かける人たちもすべてイスラム教徒のトルコ人である。この谷に住みついて記号を彫った人たちはただのひとりも、影さえもない。彼らは多分ギリシアから、シリアからあるいはガリラヤ地方から旅してきた栗色の髪の人たちだったろう。その人たちの影さえもいまはないという事実が、余計彼らの極限的な精神性を純粋に際立たせるのだった。食って生きて死ぬだけではない人間であることのギリギリの何かを、惻々と感じさせるのだった。  最後の日は夜まで谷を訪れた。そこは開けた斜面ではなく、両側に崖が切り立った深い谷だったが、その下に私が立って両側の崖下の小道を運転手に懐中電灯で崖を照らしながら歩いてもらった。谷の底には高い樹も幾本かあって、陰々と風が吹きこんでいた。両側の崖には人工の岩窟が並んで黒々と口を開けていた。私たち二人以外、谷の全体は無人だ。その口を開けた穴の中のひとつひとつに人骨が横たわっている気がした。ローマ郊外|地下墓地《カタコンベ》の巨大版のようだ、と考えながら、こんな気味悪い黒い谷間に住みついて死んでいった人々のことを、改めて本気で考えてみようとした。  何から彼らは逃げてきたのか。キリスト教徒であるために追われ捕えられ処刑されたのは、ネロ皇帝の頃の比較的短い期間の、限られた地域だけのことだったと思う。彼らが本格的にここに来始めたとされる四世紀頃には処刑の危険はなかったはずである。  では「ヨハネの黙示録」を書いたヨハネのようなユダヤ系知識人たちによって、新しいキリスト教共同体と新約聖書に持ちこまれたユダヤ教的終末諭感覚が、ローマ帝国を含めたヘレニズム文明の没落感覚と重なって、彼らにこの不毛の僻地への逃避を選ばせたのだろうか。「死海写本」の発見から明らかになったユダヤ教エッセネ派の人々が、来たるべき神の国の到来を待望して、死海の岸の不毛苛烈の荒地に閉じこもったのと同じように。つまり滅びゆく文明の悪徳から去って、粗衣粗食のぎりぎりの生存条件の下で、信仰だけを研ぎすますことによって、終未を免れ、新しい神の国に招かれる資格を得ようとしたのだろうか。  多分そうだったのだろう、とその最後の夜の黒い谷では、私はそう考えた。だが終末論的パラノイアないし集団ヒステリーは、いつの時代でも人類に底流してきた。蛮族が侵攻し、ペストが流行し、ハレー彗星が姿を現わす度に、千年紀が終わり世紀末が訪れる毎に、終未的恐怖に人類は襲われてきた。カッパドキアに隠れ住んだ人たちだけが、とくに終未に怯えたとは断定し難い。  むしろ最初にカッパドキアの谷まで辿りついた人たちは、この奇岩の不毛の地をもっと積極的な意志から選んだ、と思えてならない。後期の広い岩窟寺院を別にすると、多くの岩窟は精々二人、恐らくはひとりが掘って住んだとしか思われないほと狭い。場所によってはその岩の群は、窓越しに話が出来るほど相接して立っていて、住人たちは互いに行き来し助け合って生活しただろうと思われるが、広い谷の岩峰のすべてに岩窟が掘られてはいなかった。すぐ近くに隣合って住んだのは十人か二十人か多くて三十人程度の印象だ。そして頂が尖っているという形は区別し難いほど似ながら、各岩はそれぞれに独立した感じを与える。それぞれの岩がひたすら天を志向する個尺の意志のきびしさそのものに見えるのだ。後期の岩窟寺院を別にすれば、そこに何らの組織的なにおいはない。  帰国してから『未来への遺産』を読み返すと、カッパドキア全体の岩窟に描かれ、あるいは刻みこまれた図像のうち、具象的なキリスト教絵画は実に二〇パーセントに過ぎず、残りの八〇パーセントは抽象的な記号だと書かれていた。何も壁に残されていない岩窟も多数あったので、私自身の記憶では抽象的記号がそれほど多くの割合を占めるという印象ではなかったけれども、四世紀にはすでにキリスト教は聖像、聖画の具象表現を認めていたことを考えると、四世紀より早い時期に初期の岩窟はつくられていたことになり、あるいは偶像崇拝嫌悪の気風、つまり聖なるものへの絶対的志向が長くこの地では残り続けたことになる。  そうなのだ、この天を指す奇岩の地は、天への思いの純粋すぎる人たちの場所だった、と私は思う。  聖書研究学の最新の傾向は、生存中のイエスはのちに福音書が伝えるような奇蹟の人、神の子キリストではなく、当時のヘレニズム世界に広く有名だった流浪の人生哲学教師「|犬儒《キニク》派」に近い人物だったと想定し、その言行録を記した短い原本Qの存在を推定している。ユダヤ教的終末論に侵されたキリスト像をつくり上げたのは、マルコ以下の福音物語作者たちだったという(バートン・L・マック著『失われた福音書——Q資料と新しいイエス像』)。  一九四五年に上エジプトで発見されたトマス福音書を含めた五福音書は、一世紀末頃までに成立したとされている。するとユダヤ教終末論に染め上げられ、キリスト教団の聖職者組織に組みこまれる以前のQ言行録の信者、イエス生存中の信者あるいは直接にその影響を受けた最初期のイエス信者の流れを汲む人たちが、すでに一世紀末ごろからカッパドキアに入りこみ始めていたのではないか、と想像したくなる誘惑をおさえ難い。  ギリシア哲学の犬儒派は、後世シニックあるいはシニカルの語源となった一派で、迎合的で因習的な生き方を否定して、反世俗的なホームレス生活をしながら、広場や市場で自然で自由な生き方の知恵を民衆に説いた”人生の教師”たちだった。奇蹟も行わず、終末も説かず、特定の神の宣伝もしなかった。Q言行録によればイエスが口にした「神」も天地自然の理というに近く、ユダヤ教的な恐ろしい父なる神ではない。  実はマック教授の驚くべき書物を読みながら、私の脳裏に去来したもののひとつがカッパドキアの岩窟であり、その壁に刻まれていた聖なる記号であった。非具象で宇宙的で、しかも肉眼には見えぬこの宇宙の絶対的な力あるいはパターンの存在を静かに実感させる記号。その記号だけを壁に刻んで不毛な谷で反俗的な孤独の極限の生活を生きた人たち。  彼らはユダヤ教的な終末の恐怖を逃れたのではなく、イエスという”教師”の教えを多少過激に実行しようとした人たちではなかったろうか。天を指す奇岩の中での天への志向とは、この宇宙の根源的真理への愛を意味する。|審《さば》く神、契約の神、怒りの神、妬む神への恐れではなかった。  ソクラテス、釈迦、孔子がほぼ同じ紀元前五世紀に、やはり貧しい教師、流浪の説教者として、大いなる知恵を平明に説いた。その知恵は彼らの天才が生み出したものというより、それまでの人類何万年何十万年の経験が結晶した知恵であったろう。イエスもその少し遅れたひとりだったと私は思う。穀物生産が進んで貨幣経済が一般化し政治権力が強大化し始めるとともに、富と権力への欲の誘惑によって自然とともにあった時代の知恵がおびやかされ始めたとき、彼らは同じように警告した。 「何と幸運な者だ、貧しい者は」(心の[#「心の」に傍点]貧しい者と直したのは、福音物語作者だ)。 「何を食べようと、命のことで心配するな。何を着ようと、体のことで思い悩んだりするな」 「カラスのことを考えてみるのだ。種蒔きもせず、刈入れもせず、納屋に穀物をためもしない。それなのに神はカラスを養っておいでだ」 「ただおまえたちへの神の支配を確信するのだ」 [#地から1字上げ]——Qの教本より(秦剛平訳)  このイエス自身の言葉と推定される「神」が、いかに物語文学福音書の「神」のニュアンスと異っているか。孔子が言った「天」にいかに近いか。何十万年来、人類は天の下で、天とともに生きてきたのである。その「神」をもしイメージにすれば、白いひげを生やした老人でも、高い座所に坐った最高権力者でもなく。二重三重の同心円——天の理法の、自然な人間の魂の相に近いであろう。  だかこの平明な、そして若干シニカルでなくもないイエスの言葉が、神の子キリストの権威あり気な物語「新約聖書」の文章に変えられたように、カッパドキアのそれぞれに自立して天を指していた小さな岩窟の中の単純な聖なる記号も、後期の広い岩窟寺院の壮大な具象壁面に変り、そしてその後間もなく押し寄せたイスラム教徒のトルコ軍に占領され、やがて岩窟の人たちはどこへともなく四散し消えていった。  いまは岩窟の小窓から、乾ききった凝灰岩の土粒が風に吹かれて石の床に落ちる音がするばかりである。  あの無人の静寂の中を落ちるサラサラという土粒の音を、私の耳は忘れることはできない。私の目は小窓からからっぽの岩屋に射しこむ日ざしを忘れることができない。  そしてその音、その光の色が意識の奥に甦る度に、黙々と天を指す岩の中を掘り続けたひとりの男の幻影を身近に感ずるのだ。  カッパドキアにも東京にも同じ日が昇り、紀元後数世紀も二十世紀末も、天はひとつである。 [#改ページ] 古都      1  水上勉氏の短篇集『清富記』を読んだ。全短篇が旧中国の禅者たちの故事を題材としたもので何か月も(何日ではない)病院の集中治療室にいたと聞いている重い心臓疾患回復後の、氏の禅的心境が飄然と漂う作品集だったが、それとは別に多くの作品の舞台が南宋の首都臨安(杭州)だったことに、私は個人的な興味も深く誘われた。  というのは、かつて中国の幾つかの都市を訪れたとき、深く記憶に残ったのが西安(長安)と杭州というふたつの古都だったからだ。しかも西安が西北中国の乾燥した平原の一画を厚く高い城壁で囲って幾何学的に構築された、いわば理性的な古都だったのに対して、長江河口地域の杭州では何かほっとして全身の緊張が快くゆるむような懐しさと、このままゆるみっ放しになるのではないかという気味悪さとを同時に感じたのである。  実際、北京から黄河流域の諸都市をまわって杭州に着いたとき、湿気の多い空気が滑らかに咽喉を通ってゆく思いがした。済南からの夜行列車で翌朝杭州に近づく車窓から眺めた青い水田の連なり、竹やぶの蔭の白壁に黒瓦の家々も、父の郷里の瀬戸内地方を思い出させる懐しさがあった。  ただ滞在は一昼夜だけで、マルコ・ポーロも訪れた往時には人口百万を数えて、当時世界有数の大都市だったという市街地の記憶は薄く、私の中にいまも濃く鮮やかに残っているのは、市の西方にひろがる西湖、それもその北岸の一区画と湖中の小島の印象だけだ。  だが「上に天国あり下に蘇州と杭州あり」と称され、「西湖が宋を亡ぼす」とさえ言われた西湖のこの世のものならぬ美しさは、短い滞在だけでも肌にしみ入るように感じたと思う。しかもその美しさは「傾国の美女」的なそれであって(事実、そこは宋より遥かに遠く呉王夫差と越王勾践の時代の伝説的な美女、西施の生まれ育った地でもある)、何かこの世のまともな基準を果てもなく逸脱してゆく危うさ、頽廃の悦楽と不安が濃く滲みこんでいた。  杭州が最も栄えた南宋の時代は、北方のツングース系の女真族「金」とその背後にはさらに強大なチンギス汗のモンゴル族「元」の騎馬軍事力におびやかされ続け、不断に滅亡の危機の時代であった。一二七六年ついにモンゴル族「元」の軍に杭州は攻め落されるのだが、杭州の、西湖の余りの美しさ、余りにも繊細なその文化が暴力を誘いこむような質のものだったようにも思われる。  いや外から呼び寄せるだけでなく、ある質の美はそれ自身の内部に、減亡の、暴力の、悪の暗い力を秘めている、繊細な人工の究極が深く自然に通じる……という人間の歴史のひとつの秘密にかかわる私の体験と幻想の物語、杭州と西湖のささやかな物語を、私は語ろうと思っているわけだが、その前にひとつの前置き話をさせて頂きたい。杭州とは直接に関係はないが、物語の主題とどこかで深くつながることになるだろう。      2  一九七五年初めに芥川賞を受賞したとき、私は新聞社の外報部でベトナム戦争担当のデスク(次長)だったのだが、間もなくサイゴンが陥落してベトナム戦争が終る。それをきっかけに新聞社では極度に緊張を要する外報部デスクの職を解いて、比較的時間の自由になる編集委員にしてくれた。  翌七六年、新聞社では同系列のテレビ局の放送で午後五時から七分間という短いニュース番組を流すことになり、そのキャスター役を命ぜられた。事実上は他人が書いてくれたニュース原稿を読むだけなのだが、テレビ局で一応の特訓を受けた。  そして秋の初めのある日、テレビ局スタジオでの放映のため新聞社を出ようとしたとき、外報部の元同僚が「毛沢東の死亡発表が間もなくあるかもしれない」と教えてくれた。資料を準備する時間はなく、不安なままテレビ局に行ってスタジオに入った。  五時から予定の原稿を読み始めて間もなく、スタシオの隅の緊急電話が鳴った。「いま重大ニュースが入ったようです。少しお待ち下さい」とカメラに向かって言って、私は原稿を読むのを中断した。電話をとったディレクターが急いで書き取った紙をまわしてきた。「毛沢東死去、正式発表。何でもしゃべり続けろ」とサインペンで走り書きしてあった。所定の原稿を読み上げるだけで精一杯の素人キャスターに、そんな臨機応変の措置がとれるはずがない。号外級の大ニュースである。極度にあわてて混乱した。  それでも一応形だけニュースらしい形で、カメラに向かってしゃべった。毛沢東の歴史的意義、その死去の影響など。だが外報部記者の経験はあっても中国が専門ではない私の頭の中の知識など知れたものだ。間もなく頭の中のテープが切れたように、何も言葉が出てこなくなった。混乱は恐怖に変り、ほとんど現実感を失った。カメラの黒く透明なレンズだけがすく前で私の顔を撮り続けている。  テレビでは四秒以上の|間《ま》をあけてはいけない、と教えられていた。四秒は忽ち過ぎたはずなのに、言葉は出てこない。スタジオは静まり返り、時間だけがごうごうと流れてゆく。恐怖はパニックに近くなった。そのとき空白になった意識に、ふっと切れ切れの言葉が浮かびかけた。「女性的で……謎めいて測り難く……不吉な……ロバのように頑固……孤独で……冷笑的でおそろしい……」。  若かった頃に読んでその箇所だけが異常に強く記憶に残ったアメリカの女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーの『中国の歌ごえ』の中の、延安の洞窟で初めて会ったときの毛沢東の印象を記した言葉だと咄嵯に気付いたが、そんな言葉をこの死去の際に口にすることはできない。  圧し潰すような非現実感だけが続き、七分間の所定の放映時間が終っていたことさえ、私はわからなかった。カメラが|退《ひ》いてやっと我にかえって、傍のディレクターに「どのくらい穴をあけたんだ」と尋ねると、「十二秒も」と不機嫌に答えた。  数日後、私はキャスター役の辞任を新聞社幹部に申し出た。十二秒間の長い恐怖とテレビカメラに晒される嫌悪感が強く残った。  それからあの空白の中でどうして、ずっと以前に読んで意識的には忘れていたはずのスメドレーの言葉の断片が、急に浮かんできたのだろう、という自分自身への怪訝な思いも残った。私自身も漠然とながら彼女と同じような感情を、毛沢東に対して、とくにその「文化大革命」に対して、心の奥では抱くようになっていたのではあるまいか。その感情が、ありきたりな「偉大な毛沢東」を悼む言葉をしゃべっている間に、いわば反発的に誘い出されて、遠いスメドレーの文章の記憶を呼び出したのかもしれない。      3  その半年余り後の一九七七年晩春、私は新聞社の中国取材チームの一員として、初めて中国を訪れることになる。  中国はすでに、華国鋒が国家主席に就任し、ほぼ十年間にわたって中国全土を争乱の大渦に巻きこんだ「文化大革命」を主導した江青(毛沢東夫人)、張春橋、姚文元、王洪文のいわゆる「四人組」は逮捕されていた。当時中国訪問は、中国政府・党の正式招待という形でしか実現できなかった。中国側は毛沢東後の中国の安定ぶりを、「文化大革命」がいかに恐るべき不合理な争乱に過ぎなかったかということを、北京以下主な諸都市で直接われわれに見せ、日本に伝えさせようとしたのだと思う。  北京、西安とその周辺、山東省の青島、済南を経て、写真部のカメラマンを含めた取材チーム五人は、五月初めのある晴れた朝、夜行列車で杭州駅に着いた。駅からそのまま市内で最大の絹織物工場に向かう。  まず工場の中を案内されて歩きながら見た。精巧な絹織物は古くからこの地の名産品のひとつだが、そこは機械設備の大工場だった。もちろんこの時期の中国の工場にハイテクのオートメーション装置はなく、古典的な機械と工員の人力とで操業されている。とくに|捺染《なつせん》部門で、上半身ランニング一枚の両腕から胸、頸すじまで色糊に染まり汗だらけになりながら、細かな模様が透かし彫りになった薄い木版のようなものを布地に両腕で圧しつける捺染工の、細かな神経と強い筋力を要する重労働ぶりに、戦争中、工場に勤労動員された経験のある私は恐れをなした。  そのあと工場の会議室風の大きな部屋で、工場の幹部から、この工場が「文化大革命」の時期に、いかに恐怖の工場と化したか、という実情を聞かされた。同行の外務省官吏が逐一日本語でそれを伝える。 「この杭州は全国で文化大革命が最も暴力的に、ほとんど地獄のように荒れ狂ったところです」  いきなり説明者がそう切り出したとき、私たちの聞に「えっ」「おお」といった驚きの声が流れた。私たちの中には北京や上海をこれまで訪れたことのある中国担当の専門記者もいたが、私のように初めてこの地に来た者も、これまで本で読んだり話を聞いたりして、杭州が地上の天国にも等しい由緒と情緒ある比類なく美しいところだというイメージを、何となく持っていたからである。  これまで訪れてきた都市、工場、農村でも「文化大革命」中の非道な行為の数々を教えられてきてはいたが、このように直截に、あるいは劇的な表現で語られたことはなかった。説明者が痩せて顔色のよくない地獄の生き残りのように陰気な人物だっただけに、その表現は実感があった。北京から同行している外務省の通訳者がそれを感情ぬきの殊更正確な日本語で伝えるのも、別の意味で劇的効果があった。  もちろん私も|呆気《あっけ》にとられる思いだが、何か偶然の間違った出来事と思った。八百年前の最盛時には及ばないとしても、この広い中国で最も優雅なはずのこの土地で、そんなことが起こるはずがない、とこのときはまだそうとしか感じられなかったのだ。  冒頭の衝撃的な発言以外、説明者の言葉をそのままには記憶していない。ほぼ次のような事実(と信ずるしかない)が語られた。  翁という姓のひとりの工員がいた。捺染工の出身で、怠け者の嫌われ者だった。私(説明者)が捺染班の班長だったときの部下だったが、どのグループに入れても落ち着けなかった。そのくせ自分の出世の欲だけは抜群で、毛主席が「造反有理」と宣言して「文化大革命」が始まるや、工場の造反組織にもぐりこみ、幹部の吊し上げ、武闘、ぶち壊しの先頭に立って暴れまわり、上海から身を起こした「四人組」の王洪文や姚文元らにその活動が認められてお墨付きを手に入れると、工員と職員合わせて五千人もいるこの大工場の事実上の帝王、閤の帝王にのし上がった。  そして規律違反で労働再教育を受けた者、汚職で退職になった者、街のチンピラどもを集め、武器を渡して自分の私兵にして、工場の幹部たちを次々に脅迫追放し、自分に従わない労働者たちを殴りつけ重傷を負わせ続けた。ついには私設の監獄まで作って勝手に、もちろん裁判も何もなしに、反対派を片端からぶちこみ、ろくに食べものも与えないで連日拷問を加え、悲鳴をあげる犠牲者たちの苦悶をニヤニヤと笑いながら、翁は喜んで見ていた。 「その頃の毎日を考えると、いまでも体が震えて目の前が真暗になります」  と説明者の声も震えた。  この種の「文化大革命」時の造反行動の異常さについては、新聞社の外報部で当時多くの情報を耳にしてはいたが、現場で当事者から直接に聞く体験談は、たとえ誇張があるとしても迫力があった。 「翁というその男は何歳ぐらいだったんでしょうか。名前からすると老人のようですが」  私たちのひとりが質問した。説明者が初めて少し笑いかけた。 「年寄りどころか、暴れ始めた頃はまだ三十歳になったばかり、四人組の引きで浙江省革命委員会の常務委員にまで出世した時で、三十代の後半だったでしょう。彼自身がチンピラだったんです」  私はたったいま見てきたばかりの捺染工のきびしい労働を思い出していた。工場の建物も機械も古く、空気は濁って臭かった。決して快適な労働環境とは言い難い。多分賃金も安く青春は貧しかっただろう。翁という名のその若い捺染工の中では、不満とやり場ない怒りが鬱積していただろう。その怒りに「造反有理」と火をつけたのが「文化大革命」だった。遠いパリのJ・P・サルトルまで興奮させたのだ。  反抗的な目つきの、他人と協調できない暗い性格、だが異常なエネルギーを内に秘めた若者を思い浮かべる。「不吉な性質……彼のユーモアは精神的な孤独の深い洞穴のなかから噴き出してくるように冷笑的で、おそろしいものだった」という延安時代の、多分四十代だった毛沢東に対するスメドレーの印象を思い出す。  だが中国新政権の「文化大革命」批判キャンペーンはあくまで「四人組の犯罪的行為」であって、「四人組」に江青夫人は入っていても、「偉大な毛主席」は無関係、少なくとも別格なのである。北京の天安門の上をはじめ、全国の公的などのような場所——私たちが新政府の幹部と会見した北京の人民大会堂の謁見室から、山西省の洞窟内の農村革命委員会の薄暗い一室まで、額が広く禿げ上がって黄河や長江のように茫洋たる晩年の毛主席の顔写真が、いぜんとして必ず掲げてあった。 「翁は乱暴だっただけでなく抜け目なかった。工場の金や食料をばらまいて手下を集め、上の方にも賄賂を使いました。彼が工場を完全に支配した一年間だけで、工場の金七千元を着服し、他に二万元を一味とともに遊興に使ったことがわかっています」  説明者が話し終えて、私たちは重く沈黙した。初めの驚きは深くやりきれない思いに変っていた。私は翁が作ったという「私設監獄」がどんなところだったのだろう、と考えていた。コンクリートの房は思い浮かばなかった。山の中腹の天然の洞穴の入口に丸木をはめこんで並べたようなところ。洞穴の天井からは水が滴り落ち、入牢者たちは足に鉄の鎖をつけられている……。  それから翁一味の暴行を受けた犠牲者たちが、次々と会議室に呼びこまれた。  腕と肩を鉄パイプで殴打されたという、腕の捩れた中年の職員。黙ってシャツの袖を上げると肘が変形し、上腕骨が妙な風に曲がって、右の肩に左の腕がついているような、めまいを覚えた。  髪の毛を一本ずつ時間をかけて引き抜かれたという女性工員。数センチほどポヨポヨと新しい髪がまばらに生えかけているが、上体を曲げて私たちの方にもろに見せた頭頂部の剥き出しの皮膚は、掘り返された春先の乾いた畠の面のようだ。  長年細い絹糸を扱ってきた両手の指を硫酸に漬けられたという老工員の、爪が溶けて肉が爛れ引き攣った指先。  妊娠中に腹を蹴とばされて流産させられたという若い女性工員も現れた。いまも痩せ衰えて皮膚に血の気がなく、目が異常に怯えきって視線が定まらない。 「血だらけの胎児を、あいつらは笑いながらゴミ箱にほうりこんだ」  と幽霊のような女は感情のない声で呟いた。  説明者の話はどんなに凄絶でも”話”だった。だが次々と室内に呼びこまれるのは、生身の”事実”、少なくともその余りに明らかな痕跡である。予め命令されて廊下に並んでいたのだろう。 「次」と声をかけられてひっそりと会議室に入ってきて、奇怪に変形した自分の体あるいは精神の異常さを、恥じる風でも誇示するのでもなく無表情に、外国人の私たちの前にさらし、ほとんど黙ったまま、また音もなく廊下に出てゆく。  私たちの沈黙はいっそう濃くなり、よくわからない苛立ちを覚え始める。話を聞かされるのはいい。自由に取材して裏を取れない以上、話は工場幹部の「話」として書くだろう。生き証人をこんなに集めて見せることまで必要なのだろうか。彼らがどんな思いでわが身をさらしたのか、本当のところはわからないしわかりえないとしても、これも新たな精神的圧迫なのではあるまいか。  これまで他の取材地で、このように証人の身体まで見せられたことはなかった。この土地は確かこの世の基準とは(中国の中でも)何かずれたものがある、と私は改めて感じ始めていた。死者の数を言われていなかったことに気付いたが、質問しなかった。むしろ女性の髪の毛を一本ずつ引き抜くという繊細な暴力について考えていた。それは先程見た絹織物の信じ難いほど繊細な模様と色付けに通じている。反対派を一挙に射殺ないし並べて銃殺するといった粗雑で単純な暴力は、多分この地にふさわしくないのだろう。  またスメドレーの言葉を思い出していた。  延安での初対面のとき、彼女の手をつかんだ毛沢東の両手は「女の手のように長く、そして敏感だった。彼の黒ずんだ、謎のように測り難い顔は長く、額は広く高く、口は女性的だった。ほかのことはともかく、彼が耽美派であることに間違いなかった」と、いまは北京郊外の革命戦士墓地の「中国人民之友美国革命作家」と彫られた墓に眠る彼女は書いている。  テレビ局スタジオでの毛沢東との不運な遭遇のあと(何であのわずか七分間の間にその死が発表されねばならなかったのだろう)、私は『中国の歌ごえ』の毛沢東に関する部分を改めて読み返していた。      4  絹織物工場が市街のどのあたりにあったのか、いま杭州市の略地図を眺めても全く思い浮かばないどころか、そのあと車で通ったはずの市街の一部のイメージさえもないのは、工場での体験が衝撃的で、かつ工場を出てからあとも様々な思いが濃く強く私の、心を領していたからだろう。  翁という名の元捺染工とその無残な犠牲者たち、劉少奇国家主席をさえ獄死させるほどの権力を振いながらいまは刑務所につながれている「四人組」たち、死後は彼らとのかかわりを公式にはタブーとされている毛沢東。そんな影濃いあるいは巨大な人物たちの姿が、心の中を影絵芝居のように転変しながら絡み合い……そして想像以上に深い奥行と陰影を秘めているらしいこの杭州という古都。  車で西湖岸の、近代的な高層鉄筋コンクリート建てだが伝統的な中国風に装飾された壮麗なホテルに入り、湖面を眺め渡しながらの昼食の間も、私はそんなことを茫々と考えていた。動乱と秩序と、暴力と優雅と、そのどちらが光で影なのか、一時は未来からの光とも見えた「文化大革命」も、いまや黒い陰謀と権力争いの「犯罪」であり、そのように反転しながら縺れうねって流れる「歴史」とはいったい何だろう、と。  陽は燦々と明るかったが、湖面から立ち昇る水蒸気で、対岸もまわりの低い山々も白く煙ってよく見えない。ふと杭州駅に着く直前に車窓から何気なく目についた小さな光景を思い出した。ちょうど工場の出勤時で線路沿いの道路の柵のすぐそばを、青い人民服姿の工場労働者らしい若い女性が腕に抱いた幼児をかわいくてたまらないという表情で、歩きながら幾度も幾度も頬※[#底本では「來+頁」、第3水準1-93-90]ずりしている姿だった。工場に着いたら託児所に預けるのだろう。特別の意味もない通りがかりの日常の風景だったが、その偶然の短い記憶が射し始めた朝日の光の感蝕とともに、何かとても貴重なことだったように、改めて感じられた。  食後、割り当てられた部屋で、私は着換えをした。夜には肌寒いこともあった黄河流域での長袖の厚地の上着と下着を脱いで、細かな白い斑点模様の入った褐色のカッターシャツの上に、べージュ色の半袖のサファリジャケットを着た。その褐色のシャツもサファリジャケットもいまも夏に東京で時々着るが、その度に西湖岸のホテルの部屋の明るさと、午前中の重苦しい気分を思い切って脱ぎ捨てる気持ちでそれに着換えたことを思い出す。  午後は「文化大革命」の取材もなく、西湖を見物することになっていた。西湖はその歴史的な有名さほど大きくはない。周囲約十五キロといい、元は杭州湾の奥の入江のひとつだったのだが、川が運んだ土砂が入江の口をふさいでできたいわば小さな陸封湖である。地方官吏としてこの地に勤めたふたりの詩人、唐代の白楽天と北宋の蘇東坡が作らせたと伝えられる「白堤」と「蘇堤」という二本の堤が湖中の北側と西側に伸びている。風はほとんどなく湖面は穏やかに明るかった。すっかり新葉が出そろった胡岸の樹々が青々と映っている。湖岸からエンジン付きボートで、まず湖中の水上公園「湖心亭」に着く。  私はいま虚心に思うのだが、その日そこで見た風景ほど、単純に純粋に美しいと感じた風景は少ない。その後に世界も国内の幾つもの場所で見た風景も含めて。豪壮とか荒寥とか憂愁とか悠久とか幽邃とか枯淡とか華麗とか霊的とか宇宙的とか、何らかの形容詞つきならば、心をうたれ魂を奪われた場所は幾つもある。だがそこは一切の形容、一切の連想なしに、ただ美しかった。  五月初めのよく晴れた昼過ぎの光、という偶然の条件も大きく働いていたに違いない。とろりと澄むともなく濁るともなく仄暗い鏡面のように半透明の水面に、睡蓮が花開いていた。どぎつくない赤と白の、あるいは花芯が赤くて花弁は白い、そこはかとなく華やかできりっと端正な小柄な花が、水中に建てられた堂宇を囲んで、そこにもここにも開きかけ、開ききっていた。  かたまって浮かんだその緑の葉の群の間から、悠々と水中をゆく黒っぽい魚の影が透けて見え、動かない水面には精妙に飾られた窓のある白壁、軒の端が心もち反り返った灰色の瓦屋根、燃えるような朱塗りの細い柱の堂宇が、背後の樹々の緑とともに、ひっそりと鮮やかに逆さまに映っている。光は水上の白い壁も水面の白い壁も、同じように燦々と照らし出す。  |寂静《じゃくじょう》として鮮明だった。  水光|瀲艶《れんえん》※[#底本では「さんずい+艶」、第4水準2-79-53] 晴も|方《まさ》に好し  と蘇東坡が西湖を詠んだのは、この季節のこの光のなかだったろう、と即座に実感できたほど九百年という時の経過がここでは消えているのか、それとも凝縮されていた。この永遠にも等しい一瞬の風景は死ぬまで、いやこのイメージの残像だけは最後の息を引き取ったあとまで、少なくとも数秒間は宙に残るだろうと思った。  さらにボートは湖面を南に進んで、人工の小島「三潭印月」に着いた。この妙な名前の由来を聞いた気もするが覚えていないし、小島の中そのものの記憶も、「湖心亭」のそれに比べてひどくぼやけてあいまいである。灰色の古い石の橋を渡った。竹の茂みの蔭の小道を辿った。廃園風の白い土塀が曲りくねっていて、不意に門の前に出るが、その門をくぐり抜けながら、自分が小島の内に入っているのか外に出ているのかわからない。 「湖心亭」にはこちらの時間感覚を気化させる光と色の幻術があったとすれば、この小島の古い庭園は空間の魔術だった。何百年の時間の塵が降り積もっているような敷石の小道が、さり気なく曲り上がっては下り、ボートの上から眺めたときはほんの小さな島だったはずなのに、いつまでも歩き続けている。竹の茂みも木立も常に初めてのように見える。  そのうちこの迷路は明らかに人間が仕組んだものだと気付くが、その意図も手も全く感じられない自然さ。島そのものが外から土と石と木を舟で運んで造られたはずなのに、これを設計し構築した人間たちは、自然の中に見事に隠れ紛れて消えている。自然を装ったあるいは縮小した庭園は多い。だがこれほどまでに自然を手懐けて自然そのものに成りきった小天地を、少なくとも私はこれまで見たことがなかった。これこそ最高の人工性てはあるまいか。精妙に考え抜かれ感じ尽くされ、しかも人間の行動とその歴史に対する深い絶望の冷笑的な気配もある……。  これが杭州の感性なのだ、と酔うように不気味でもあった。光の中の白壁と朱の柱と睡蓮の花々が陽画だとすれば、音もたてずに揺れる竹の茂みの蔭の灰色の迷路はその陰画なのだろう。睡蓮の花々の下には黒い魚影が見え隠れしていたように、小道の敷石の下には忍び笑う遠い声のようなものが聞こえた。  南宋の宰相秦檜は怒涛のように南下する「金」の軍団から首郡臨安(杭州)を守ろうとして、主戦論の武将岳飛を獄死させその首を送って、からくも「金」と和平協定を結んだのだが、いま西湖畔の岳飛廟では秦檜夫妻の像は後手に縛られて岳飛の前に脆かされているという。その他も南宋の政治指導者たちが賄賂と追従と酒色を好んだ無能な「悪者」だったことを『清富記』は繰り返し述べている。  八百年前もこの地の歴史的現実は凄絶だったのだ。  いつのまにか、私たちは瀟洒なガラス張りの温室風の建物の中にいた。ガラスの器に盛った半透明の白っぽい食べものが、テーブルの上に置かれている。 「この湖の蓮の実を粉にして練ったものです」  とずっと私たちを案内してくれている杭州市の当局者が言った。  香ばしい葛湯のようなその半固体状の食べものの微妙な風味を、私たちは口々に賞讃しながらひと口ずつ味わった。温室の中には色とりどりの様々な草花が咲き乱れている。  そのとき不意に強い視線を横顔に感じた。温室のガラス壁に折り重なって張りつくようにして何十人もの青い人民服姿の人たちが、私たちを覗き見ているのだ。湖面には遊覧船風の幌掛けの舟があったし、「湖心亭」でもこの小島の庭園でも見物人らしい人民服の人影を見かけてはいたが、とくに意識してはいなかった。  ところが気がつかぬうちにその人たちが集まっていた。「文化大革命」が終ってまだ間もないこの時期、外国人の入国はまだ異例で、外国人の観光客などはいない。私たちはそれぞれに明るい色のラフな服装をし、手に手に高級カメラを持っている。カメラマンはひとりで幾つもカメラを頸からぶら下げている。  それに対して中国人は全員が詰襟の(女性は折襟の)青い人民服、カメラを持っているものはいない。人民服も北京の高官たちはウールが入っているらしい上質の生地を体に合わせて仕立てさせたものだが、一般民衆のそれは固い木綿地の体に合わない既製服で、少し気温が高いと上着のボタンをだらしなくはずしている。  そんな着古した人民服の前をはだけた人たちが、自分たちは入ることのできない瀟洒な温室内の特別ルームで、高価そうなものを饗応されている私たちを黙って見つめているのだった。老人も若者も女性も全員が同じ洗い晒しの人民服で、同じように貧しそうだった。ただし羨望と恨みをこめて私たちをにらみつけている、というわけではない。中国の民衆は物見高いのだ。  黄河流域の農村を訪れたとき、村の幹部たちとともに集落の中の狭い道を、ひと気のない村だなと思いながら歩いていて、ふと後を振り返ると、泥壁の家々の小さな窓、幾つもの路地の蔭から何百という顔が私たちを背後から見つめていた。私たちが振り向いたと気付くと、忽ちその顔はすべて引っこむ。しばらく歩いてまた振り返ると、顔また顔だった。好奇心が旺盛なのだろう、と考えられるけれど、単純にそれだけとは思えない不気味さもあった。  この古都の民衆たちも同じようだ。視線は異常に強いのに、どの顔も何を考えているのか推察し難く無表情である。ガラス張りの濫の中の珍奇な動物を見物しているようでもあり、役人たちと一緒に(彼らから見れば)立派な身なりで特権を享受している現場を見咎めているようでもあり、蓮の実の香ばしさも消え、軽装に着換えて湖上に出てから忘れたつもりになっていた歴史的現実の重さが、じわりと気持ちの中に蘇ってくる。  彼らからみれば、唐が宋になり宋が元になり元が明になり明が清になり清が「中華民国」になり「中華民国」が「中華人民共和国」に変っても、食ってゆくだけがやっとの自分たちの生活は変らず、「上の者たち」の特権もまた変らない、と見えるのではあるまいか。  重なり合う人民服の顔の中に、捺染工時代の翁という名の若者の顔がまじっているような気がした。工場幹部の説明者は、全盛時代の翁が着服した工場の金で手下どもと、しばしば「三潭印月」で遊興した、と言っていた。きびしい労働の捺染工のとき彼は激しい目つきで、このガラス張りの温室内の特別ルームで談笑する人たちを見、どうしておれたちは中に入れないのか、と暗い怒りに燃えた日があったに違いない。なぜ中に入れないのか。権力がないからだ(「権力」という言葉が彼は異常に好きだった、と説明者は言っていた)。  彼は彼なりの仕方で「権力」を握った。その仕方も何百年来の「権力者たち」に習ったとも言える。「奪権闘争」「造反有理」と公然と激励してくれたのは、毛沢東だ。ついに浙江省革命委員会常務委員にまでなったとき、最初に彼はここに来て、この蓮の実のプリンを傲然とこの特別ルームで食べたであろう。その香ばしい風味は「権力の甘い香り」であったろう……。  そう想像し続けていると、午前中に工場の会議室で、彼の暴力的支配の無残な肉体的証拠を次々と見せられながら思い描いた黒々とした彼の像が、西湖という背景の中で少しずつ微妙に変ってゆく。彼の暗さの奥行がぼんやりと見えてくるような気がした。  私設監獄まで作った全盛時代に、彼がよく優雅な「湖心亭」や幽玄な「三潭印月」をぶち壊さなかったものだ。それらは古い権力者たちの及び難い感性の洗練の象徴ではなかったろうか。それとも、人間はぶちのめしても、この地に生まれ育ったひとりとして、西湖とその優美さを彼の血は愛していたのだろうか。全国でも異常に狂暴だったというほどの彼の暴力を生み育てたのが西湖のこの世のものならぬ妖しさだった、少なくとも地上の権力をいかに握ろうとも、動かし難いその絶対の美しさへの苛立ちが、彼の狂おしさをいっそう増幅した……。  その温室をどのようにして出たか、見物人たちがどのように離れていったか、「三潭印月」のどこから帰りのボートに乗ったか、そのすべての記憶がないのも、そんなことをまた私がしきりに考えていたからに違いない。      5  二十二年間も主治医を勤めた李志綏博士の『毛沢東の私生活』(日本語訳一九九四年刊)という回想録によると、毛沢東は北京市中南海の公邸にじっとしてはいなかった。地方での会議とか地方視察というやむをえぬ場合以外も、専用列車で地方諸都市に滞在していたことが多い。ただし西安のような北方の都市の名前は李博士の回想録に一度も出てこない。私の目に最もついたのが、武漢と杭州である。 「文化大革命」が始まった一九六六年五月にも、毛沢東は杭州にいた。それまで文化関係の小さな政府機関だった「文革小組」を、党政治局直属の強力な政治指導組織「中央文革小組」に変え、新たに江青、張春橋、姚文元ら、のちに「四人組」と呼ばれる人物たちを加える重大措置を、毛沢東はその地でとった。つまり杭州は「文化大革命」発端の地だったことを、私は私の杭州訪問の二十年後に知る。 「ほかの連中にせっせと政治をやらせておけ。われわれは一服することにしよう」と毛沢東は言って杭州に留まり続けた、と李博士は書いている。 「杭州での毛沢東はいたって意気軒昂、滞在を楽しんだ。杭州市当局は主席のためにほとんど毎日のようにダンス・パーティーを催したし、また毛は別荘近くの丁家山によく登ったりした。もっとも、もの思いに沈んで無言の行に入り、思索にふける場合も多かった」  西湖のことも五月なら満開だったはずの睡蓮のことも出てこない。ダンス・パーティーは李博士によると、毛沢東にとって死ぬすぐ前まで絶えることなく続く、若い女性漁りの場である。翁はまだ二十代、色糊まみれになって捺染台で汗を流していた時だ。毛沢東がどのような「もの思いに沈んだ」のかは書かれていない。  この箇所を読みながら、写真で何百回も見ていた長身で肉づきのいい毛沢東の姿を、記憶の西湖の風景の中にはめこんで思い描こうとしてみるが、うまくおきまらない。風景のなかの一点というより、西湖全体を覆う大きな影のように感じられてしまう。  死去の半年余り後だったにもかかわらず、私が杭州を訪れたとき、同行の外務省官吏も市当局者たちも、毛沢東がしばしばこの地に滞在したことも、この地で「文化大革命」の口火が切られたことも一度も口にしなかった。不憫な「文化大革命」の犠牲者たちが次々と現れた工場の会議室にも、額に入った毛沢東の顔写真がかかっていたにもかかわらず。  だがそのときも、私の意識のなかには毛沢東の存在が見え隠れしていた、いや巨大な影のように絶えず感じられていた。翁という男の背後に、その影が常にあった。翁という人物が、工場の幹部が私たちに押しつけようとした「権力亡者の極悪人」というだけの男ではないに違いない以上に(取材チームの記者のひとりも、もしかするとあいつはすごく有能で魅力的な男なのかもしれないな、私にそっと言った)、背後の影は余りにも陰影に富み巨大で不可解であった。  李博士は回想している。 「文革の絶頂期、天安門広場が熱狂的な大群衆であふれ、市街が混乱をきわめていたときでさえ、毛沢東は(天安門広場に面した)人民大会堂のなかでも中南海の城壁の内側でも、女たちを相手に楽しんでいた」 「こんどは千人の人民が死ぬだろうな」と毛沢東は李博士に言った。「何もかもひっくり返りつつある。私は天下の大乱が大好きだ(我喜歓天下大乱)」。  確かに毛沢東はしぶとく冷徹でとりわけ逆境に強く、術策を好み、波瀾はあっても遂に死ぬまで最高権力と威信を保ち続けたが、「皇帝」、最高権力者、傑出した統治者、比類ない革命家といった一般的規定からはみ出る要素が多すぎることを、李博士の医学者らしい冷静で詳細な文章は描き出している。  天安門の楼上から群衆に手を振って演説するのを初めとして儀式的なことがとても嫌いで、生涯不眠症に苦しめられ、女性たちの誰をも本当に愛したことはなく心を許す男の友人もなく、王座に鎮座するより専用列車で故郷に近い長江南岸の諸都市を少数の側近と流浪するのを好み、夜と昼の区別なしに大型ベッドに寝転って歴史書を読み耽り、機嫌がいいと冷笑的なユーモアをとばす……かつてスメドレー女史が初対面のひと目で見抜いたように、彼は「孤独」だった。心の奥に底知れぬ「不吉な」穴があいていた。  中国間題の専門家でも毛沢東の崇拝者でもない私は(その死に当たってはささやかな被害者であった)、長文の李博士の回想録を読みながら勝手にこう思った——これはひとりの人間の記録ではなく、自然観察とでも言うべきものだ、と。  毛沢東個人というより毛沢東現象とでも呼ぶ方がふさわしい規格はずれ桁はずれの、矛盾と謎そのものの生涯をとおして、自然そのものが歴史に露出した、という印象を圧さえ難い。自然は畏るべく恐るべきものなのだ。自然に筋道も規範も目的も意味さえもない。|自《みずか》らそして|自《おのずか》ら然るものは、原理上、本質的に孤独である。  それに外から何らかの枠をはめようとするとき、それは物理的に反発し暴発するだろう。民衆の「生活水準」などほとんど念頭になかった、という李博士の指摘に同感することができる。党と国家の新たな官僚体制に反発した「文化大革命」もマスタープランなどなかった、という指摘も理解することができる。社会主義の将来さえ信じていなかったようだ、とも李博士はそっと書いている。  どういう色合いであろうと形ある世界(コスモス)は、毛沢東という自然には適合しなかったであろう。      6 「三潭印月」を出たあたりから、陽が薄れて湖面から立ちのぼる靄のような水蒸気が濃くなった。  北岸に腫瘍のように湖面に突き出た一画がある。そこの疎林の下、灰色の光の中を私たちは歩いている。瓦を乗せた白壁の塀があり、その一部が少し高くなって人がふたり並んで通れるほどの正確に真丸い入口になっていた。入口の上に「西冷印社」と、その奥の建物の名前らしい横長の小さな額が掛かっているが、その名前からどういうところなのか、私は想像することができない。  案内者はその丸い入口に私たちを導いた。塀の内部は敷石の小道があり、名前を知らない幾つもの種類の老樹があり、瓦屋根の端が反り返ったこぢんまりとした建物があった。人影はなく異様に静かだ。「湖心亭」や「三潭印月」のように、訪れる者の目を意識して造られた場所ではない。何となく足音を控えるような気分で、私たちは小道を連なって歩いた。少し登ったかもしれない。  かなり大きな建物の中に入っている。ガラス窓が多いが、かなり古い木造建築である。入った途端に、旧制中学生のころ住んでいた「京城」(現ソウル)でよく行った古本屋——漢文の本物の古書籍が奥に並んでいる店内によどんでいた、埃っぽくいがらっぽくそしてふしぎに香ばしいようなにおいを思い出した。  広い土間に毛筆や墨や硯や印鑑用の石や拓本や画集を収めた大きなガラスケースが幾つも並び、壁には楷書、行書、草書、篆書、隷書の、地の紙がすっかり褐色に乾ききって隅の方が綻びかけたものから、まだそう古くはなくうっすらと黄色味を帯び始めているものまで、様々の時代の掛字が下がっていた。中二階になっていてその階段わきの壁までそうだった気がする。ガラスケースは丹念に拭きこまれていたが、壁も天井も板の階段も掛軸も室内の空気まで音もなくくすんでそこに夕暮近い翳った灰色の光が浅い水底のように沈みこんでいる。  花鳥山水の古画の掛絵もあったが、書の古書およびその関係の文房具を売るところらしい。だが商店にしては、無遠慮な足音や大声で話すのが自然に憚られる、しんと引き締まった雰囲気があった。他に客らしい人たちはいない。  人民服を着た男女の係員が何人もガラスケースの向こうに立っているが、その人民服は青色ではなく灰色だった。そして布靴をはいているように音もなく床を歩く。  痩せて長身の責任者らしい男が、低い声で「歓迎」の言葉を述べた(この時期それはどこの場所でも行われる決まりだった)。男がもう若くないことはわかるが、顔の傾きによって四十代にも五十代にも六十歳にさえ見える。顔色は沈んで眼窩のくぼみが深かった。  私はタヌキの毛の筆と金色の龍の模様の入った墨を買ってから、壁の掛字を眺めていると、いつのまにかその責任者が傍に立っていた。 「書がお好きですか」  耳もとに囁くようなしゃべり方だ。外務省官吏が来て通訳してくれる。 「いえ全く素人です。ただここの雰囲気が、門を入ってきてからとても気に入っています」  と答えると、男は独り言のように言った。 「日本の書家たちがここに来ます。中国の書家たちと、上の方の部屋で書を書いて交歓したこともあります」  私は横に動いて、花を描いた色紙の前に立った。 「絵がお好きなようですね」  と年齢不詳の男は年齢不詳の声で囁いた。 「これまでホテルや工場や学校や駅で目にしてきた絵、隅の方に必ず紅旗や兵士たちが描きこまれている大きな絵に飽き飽きしてたので、花だけを描いたこの小さな古い絵に初めてホッとしています」  通訳の外務省官吏が少し気になったが、ここは本当のことを言える場所だ、と感じた。  男は声をたてないでひっそりと笑った。  それから足音を立てないで奥に行くと、一本の掛軸を持ってきて、丁寧に壁に下げた。表装は真新しいのに、絵は古くかなり傷んでいた。だが横長のその水墨画を一瞥しただけで、私は息をのんだ。信じ難く自由な溌※[#底本では「さんずい+發」、第3水準1-87-9→78互換包摂 溌]墨の技法で描き出された、靄にかすむ湖の風景だったからだ。うごめく霧のなかに小島が飄然と浮き出している。思わず私は広いガラス窓に視線を向けた。下の老樹の梢が人工の小島を遮っていたが、灰色の湖面の一部が見えた。水烝気が立ちこめ始めている。  私は咄嗟に頭に浮かんだ画家の名前を口にしかけた。 「もしかすると、これは……」  その独自な溌※[#底本では「さんずい+發」、第3水準1-87-9→78互換包摂 溌]墨山水の画法の別の絵の実物を一度、複製写真版なら何度も見たことがある。だが男は静かに首を振った。そして「いい絵です」とだけ呟いた。会話にならぬ会話の通訳に、普段は日本語の達者な若い外務省官吏も緊張している。  そのとき市当局の案内者に導かれてチームの他の記者たちが建物の外に出始め、私は重ねて画家の名を確かめる機会を失った。もう一度、|縹渺《ひょうびょう》としてしかも|勁《つよ》い気韻の漲るその傷みかけた絵を眺めてから、男に深く一礼して、すでにチームの方へと急ぐ通訳のあとを追った。  もし私の咄嗟の直観に誤りなければ、その高名な南宋の画家は、ここ西湖岸の寺に住んだはずである。だが本物だとすれば国宝級のその画家の絵が、こんな奇妙な場所にあるだろうか、いやこんな場所だからそのような絵があってふしぎでないのかもしれない……興奮し混乱しながら、私は建物を出た。  散在する老樹の下、曲がりくねる古い石段を私たちはのぼった。丸瓦が畝のように並んだ瓦屋根の回廊が、小山の中腹をめぐっている。幾らか朱色もまじった暗灰色の瓦には苔がひろがっていた。前を行く中国専門の記者が話している。 「陳毅の書があったな。吊し上げに押しかけた紅衛兵たちを怒鳴り返したあの陳毅外相。剛毅な字だった。文化大革命に反対し続けて、外相の地位も奪われ、憤死するように死んだ。確か七二年の初めだ。もう少し生きのびれば良かったのに」  もうひとりの中国の事情にくわしい記者が言った。 「でも八宝山の革命墓地での追悼式で、毛沢東は、陳毅はすばらしい同志だったと未亡人の手を取って言って、一同声をあげて泣いたという話だから名誉回復されたんだ」 「埋められてから名誉回復されたってしようがないよ」 (そのとき毛沢東は泣くふりをしただけだった、と李志綏博士は書いている)  私は黙って列の一番後から、ゆるやかな石段をのぼった。小高い庭に出た。大きく平たい自然石のテーブルがあり、秋でもないのに紅葉した樹があった。小さな庭の端から西湖が見えた。  昼過ぎには鏡面のようにきらめいていた湖面が一面灰色に変って、対岸も蘇堤も小島も靄の流れに見え隠れしている。南宋の時代も暮れ方の西湖はこう見えたのだろう。まだ眼底にはっきり残っている、先程の異様なほど縹渺とリアルだったふしぎな古画を想った。次第に眼下に西湖を見渡しているのか、絵の中を覗きこんでいるのかわからなくなる。絵のなかでも靄はうごめき、小島は絶えず見え隠れしていた。西湖は絵のなかで何百年も暮れ続け、これからも暮れ続けるだろう。自然そのものより永遠に、だろうか。 「興奮しているようですね」  何年か後輩の親しい記者が、私の傍に立って言った。 「昼間の西湖はすばらしかったけど、暮れてゆく灰色の西湖もいいな。晴れても雨が降っても西湖はよい、と蘇東坡が詩に書いた通りだよ。それにここ、この場所。共産主義中国に、文化大革命が一番荒れたというこの杭州に、こんなところ、こんな人たちが残っていたとは」 「昔から政治や動乱を嫌った文人墨客たちが集まったところだと、案内人が言ってました」 「いかにもそんな感じの場所だよ」 「気がつきませんでしたか。さっき筆や墨を買った建物の奥の方に凄く品のある美人が坐ってた。髪はふさふさと真白なのに、顔は若い娘より美しい。白狐が化けて坐っているような気がして」 「それは気がつかなくて残念だったけど、この場所の気配は何かみたいだ、とさっきから考えていて……そう仙洞だ。仙人仙女たちが住んだという」 「好きなんでしょう、こういうところが」  私は少しだけ笑った。 「好きだよ。だけど気味も悪い」  庭を囲む書院風の部屋部屋の白壁にも、夕の灰色がしみこんでゆく。部屋の窓には斜交する格子が固くはめこまれている。人影は全くないが、その中で影のようなものが対座して静かに語り続けている気がした。時を超えて。 「暗くなります。行きましょう」  と予定の時間に忠実な案内者の声で、私たちはさらに小暗い林の下道を辿った。  林を抜けて少し下ると急に石畳の小さな広場に出た。行手に褐色の石を丹念に積み上げた二層の楼台があり、下層の正面には門のないアーチの入口が黒々と口を開き、上層の書庫風の大きな部屋の壁には蔦がびっしりと絡みついている。  蔦の隙間から覗いている両開きのガラス窓の窓枠の朱色が、なぜかドキリとするほどなまなましかった。窓にはガラス戸を開いて内側から庇の方に押し上げる木製の雨戸がついている。いまはまだ押し上げられた状態のままだが、上の書院風の部屋部屋と違って、ここには雨戸を上げ下ろしする係員が朝と夕暮に出入りする、あるいは昼間部屋の内部で仕事している人間がいる、ということだろう。そんな想像から石積みのトンネルの上のその部屋が、人間くさくて謎めいた一種異様な印象を与えるようだった。  あの部屋には何かある、という気が強くした。トンネルの中はひんやりと暗かった。長さは十メートル以上あったろうか。ということは頭上の書庫風の部屋もかなり大きいということだ。  トンネルを抜けると急に視界が開けて、ホテルが見えた。膨れた腫瘍のように突き出た一画から、ホテルのある湖岸に出たわけだ。下りの石段が自動車道路へと通じていた。異界からの出口のような石のトンネルの黒い口を幾度も振り返りながら一番遅れて私が石段を下りると、下で待っていた案内者がそっと教えてくれた。 「いま下りてきた小山をコ山と言います。孤独の孤という字を書きます」 「孤独」という言葉を口にするのを恥じるような言い方だった。      7    夜熱依然午熱同※[#夜熱依然として午熱に同じ]    開門小立月明中※[#門を開きて小《しばら》く立つ月明の中]    竹深樹密虫鳴處※[#竹深く樹密にして虫鳴く處《ところ》]    時有微涼不是風※[#時に微涼有り是れ風ならず]          ——楊萬里「夏夜逐涼」  楊萬里は百五十年ほどの命運しかなかった南宋の代表的な詩人・文人だが、「時に微涼有り是れ風ならず」という感受性は、繊細すぎて鬼気的でさえある。  彼が死んで七十年後、南宋は亡ぶ。  だが南宋を亡ぼした「元」の詩人|薩都剌《サットラ》が「西湖に遊ぶ」と題する連詩六首を書いたのは、他ならぬこの亡国の都だった。その一首。    少年豪飲酔忘歸※[#少年豪飲し酔いて歸《かえ》るを忘る]    不覺湖船旋旋移※[#湖船旋旋移るを覺《おぼ》えず]    水面夜深銀燭小※[#水面夜深く銀燭は小さく]    越娘低唱月生眉※[#越娘《えつじょう》低唱し月、眉に生ず] 「|越娘《えつじょう》」とは西施のころ「越」と呼ばれたこの地生まれの妓女のこと、「月、眉に生ず」とは月光が横顔を照らし出すという意味のようだが、遠く山西省生まれのモンゴル人詩人を引きつけ、このような妖しく美しい詩を創らせた西湖、杭州の妓女そして廃都の香気は、繊弱だけだったろうか。      8  その夜はホテルの一室で「杭州市革命委員会」の歓迎宴が行われた。  特別のことではない。北京でも西安でも(杭州のあとに訪れた上海でも広州でも)、私たち訪中取材チームの到着の夜はそのような夕食の宴が準備されていた。大がかりのものでもない。この夜のそれも同行の外務省官吏二人を含めた私たち七人とほぼ同数の招待側のメンバーが、中国料理の円卓を囲んだ。 「革命委員会」という名称も形式的なもので、この時期どこに行っても、都市でも町でも工場でも学校でも農村でも、あらゆる機関、組織のヘッドはそう呼ばれていた。「杭州市革命委員会」とは杭州市庁当局という意味で、その夜の招待側のチーフは「外事辧※[#底本では「辧」の「刀」に代えて「力」、第3水準1-92-50]公室主任——いわば渉外関係の責任者だった(中国で「主任」という地位はきわめて高い)。  ただし市庁の幹都というイメージとは、およそかけ離れた人物だった。長身痩躯※[#底本では「身+區」、第3水準1-92-42→包摂適用 躯]、白髪が美しい。招待側出席者たちの中でひとりだけ、青色でなく上品な灰色の人民服を着ていたと記憶しているが、人物の印象からの誤った記憶の可能性もある。  宴のはじめに老主任が穏やかな口調で歓迎の挨拶を述べた。内容は型通りに新しい中日両国の友好関係を願うというものだったが、他の諸都市での招宴の挨拶と違って、革命とか政治とか建設というような言葉、毛主席の名前さえも一切口にしなかったことが、強く印象的だった。  そのために招かれた側の代表として、一番年長の私が答礼の挨拶をするときも、華国鋒政権の新しい方針というようなことは一切触れずに、古都杭州の魅力と西湖の信じ難い美しさについてだけ、つまり本当に感じたことだけを率直に語ることができた。午前中に絹織物工場で知ったこの古都の暗くおぞましい印象については、礼儀上全く触れはしなかったけれども。  穏やかな宴だった。次々と運ばれてくる杭州料理の味も精妙だった。開かれた窓からは湿気を帯びているはずなのに爽やかな、湖の水と岸の樹々の緑の匂いを含んだ夜気が快く流れこんでくる。  隣席の老主任は、私が他の出席者たちの話に気を取られたりしていると、実にさり気なく私の小皿に料理を取り分けてくれている。長い箸を使うその手つきが実に優雅だ。杭州の名物料理「泥棒鶏」の由来なども、これは伝説ですと断りながら、ユーモアをまじえて静かに語ってくれた。この人が「革命委員会」の委員、市の行政当局者とは、いよいよ信じ難くなるのだった。 「……のために」と小さく細長いグラスで茅台酒の乾杯が、双方の出席者たちの誰かの音頭で繰り返された。初めは「中日友好のために」から始まって、「日本のいっそうの発展のために」「中国の新しい社会主義建設のために」「(私たちの)新聞社のために」「杭州市のために」「東京のために」「西湖のために」……やがて「泥棒鶏の元をつくった間抜けな泥棒のために」となり、私は「比類ない湖心亭の睡蓮のために」と立って言った。必ずしも乾杯毎に強い茅台酒を呑みほさなくてもいいのだが、酒に強いと自称する写真部の若いカメラマンは全員の拍手を受けてすべての乾杯の杯をあけているうちに、ついに椅子から立ち上がれなくなってしまった。  酒に弱い私はほとんど呑んでいないつもりだったのに、それでも幾らか酔いがまわり始めたようだった。いやアルコール分ではない、ふしぎな古都杭州に、西湖の夜に酔ったのだ。  老主任は幾度か杯を空にしているはずだが、少しも酔った気配はない。このひとはまるで文人か詩人のようだ、毛沢東の額が掛かっているに違いない「革命委員会」の主任室より、あの「西冷印社」の上の白壁の書院風の部屋に坐っている方がずっとふさわしい、と考えたりしながら老主任に言った。 「きょう西冷印社で、奇妙な古い水墨画を見せてもらいました。水墨画にくわしいわけではありませんが、私は即座に|牧谿《もっけい》ではないか、と思ったのです。西湖の暮色を描いたものでした。あの独特の描法で。それ以外に考えられないような神韻縹渺たる逸品でした。少々傷んでおりましたが。でも……」  と言いかけた私の言葉を引き取って老主任は言った。 「|牧谿《もっけい》の真筆は残ってないはず」 「そう聞いていました。日本に渡って残っているものも偽作があるとか。西冷印社の人に確かめようとしたのですが……」 「答えなかったでしょう」  老主任は紹興酒の杯を含んで微笑した。それから窓の方を向いて言葉を探している風だった。西湖も小島もしっとりと深く闇に隠れて「弧山」らしい小山の影だけがかろうじて見分けられるだけだ。 「|牧谿《もっけい》はこのあたりの旧家にまだ幾つか残っていたのです。それがわかったのは最近のこと、文化大革命の最中に、古いものは何でもぶち壊せ、と造反派の連中が次々と旧家を襲って、秘蔵の文物を引っ張り出して焼き棄てようとしたときでした。それを押しとどめて、幾つもの古い絵や書を救い出したのが、西冷印社の人たちだったのです」  静かな口調だったが、声のうちには憤りの色がこもっているのが感じられた。 「何人か傷を負ったとも聞いてます。そのことに触れられたくなかったのでしょう。それに真筆かどうか専門家たちにいま綿密に鑑定させているはずですから」  この地の測り知れぬ深い陰鬱と奥深さに、改めて私は驚くばかりだった。  通訳が伝える老主任の言葉に、室内は静かになっていた。他の記者たちも「ああ」と感嘆の声を洩らした。翁一派が傷つけたのは反対派の身体だけではなかった。もし真筆なら|牧谿《もっけい》の隠され残された信じ難い作品さえ灰になるところだったのだ。 「あの影のような、まるで昔の仙人のような西冷印社の人たちが……」  と私が感動して言いかけるのを微笑して眺めながら、老主人は言葉を継いだ。 「|牧谿《もっけい》も座禅を組んで絵を描いていたばかりではありません。時の宰相賈似道の非道を批判して怒りを買い、一時ここを逃がれたこともあったのです」 (そのときはその名前さえ知らなかったのだが、南宋皇帝三代の宰相だった賈似道は、南宋悪宰相のひとりで、兵役免除の特権がある僧侶免許状を売りまくって仏教堕落の一因をつくった人物と、水上勉氏は書いている)  しばらく座は「四人組」のこと、午前中に聞いた翁一派の暴力とその犠牲者たちの話題でにぎわった。老主任はそれを眺めて静かに杯を傾け、私は枯淡繊細なだけではなかったこの地の古今の芸術家、詩人、文人のことを考えていた。毛沢東という謎めいた人物のことも。みずから詩を書き史書を読み耽りながら、彼は旧文化一掃の口火も切った。  恐らく華国鋒政権になってから「革命委員会」に加わったと思われるこの文人的な老主任も、「文化大革命」中には想像を越える様々なこと、迫害も苦難もあり反発も抵抗もしたに違いないと思った。  この宴席のほかは広壮なホテルは物音ひとつなく、着剣した兵士が立っている眼下の明るいホテル正門以外に窓からひとつの灯も見えず、古都の五月の夜は二千年の興亡と栄華と頽廃と悪と美の影を溶け合わせて、ただ墨一色にひろがっている。  だが先ほど見せてもらった|牧谿《もっけい》かもしれない西湖の水墨画の、おのずからうごめき漂う明暗の奥には、天と地、自然とわれわれ自身の魂の芯を貫く永遠に真なるものの不可視の一点が、見すえられていたような気もした。いやそれも茅台酒の酔いが呼び出した一片の幻想かもしれない。最上質の茅台酒は暗黒の洞穴の奥で天然の氷塊とともに熟成して透き徹ります、と宴の初めに老主任がそっと教えてくれた。  宴|闌《た》けても背筋がゆるむことのない老主任が、顔を寄せて囁くように言った。 「四庫全書というものをご存知ですか」 「清の乾隆帝が命じて作らせた中国最大の書物の大叢書ということしか知りませんが」 「当時全国から集められる限りの書物らしい書物十七万巻が集められました。そのうちほぼ半数が清書され、著者の履歴、書の内容、その書への批評が”提要”として付けられ、残りの半数は書名だけを記録して提要を付けた」 「十七万巻の一巻ずつに概要と批評を付け加えたのですか」 「十年の歳月と莫大な費用をかけて」  老主任は淡々と語るが、私はめまいのようなものを覚えた。だがそれは単なるお話でも伝説でもない。この取材旅行に出る少し前に司馬遼※[#底本では「二点しんにょうの遼」→包摂適用 遼]太郎氏が北京の故宮内の地下室で、四庫全書の一部を見せてもらったことを書いた文章を読んでいたからだ。日頃冷静な司馬氏が「いま漉いたばかりのような紙、いま刷り上げたばかりのような文字、いま綴じたばかりのような絹の書物のうずたかい山」と興奮して書いていたのを覚えている。 「また提要だけを集めた”四庫全書総目録”というものを別に作りました。全体を経・史・子・集の四部に、四部をさらに易、礼、四書、正史、雑史、伝記、地理、農家、天文、琴譜、雑技、食譜、草木鳥獣虫魚その他に細かく分類して、時代順に配列したものです。目録だけで二百巻あった」  そう続けながら老主任も少しずつ興奮してくるのが感じられた。 「そこには太陽と星々の運行、山と河と森と湖の配置、歴代王朝と諸国の歴史、神話と伝説と物語、諸々の宗教と思想、築城と灌漑と建築、陶磁器の技術、医学と呪術、すべての動物と木と草と虫の観察、英雄たちの伝記、庶民生活の記録、法と習慣、経済と天変地異、節気と風水の理、悲恋と犯罪、葬儀と長命の術……つまり中国全土にかつて在り現に在りこれからも在るすべて、人間が考え感じ想像し夢みたすべてについて書かれた文章が集められた。中国のすべてとは、私たちにとって世界のすべて、宇宙のすべてなのです」  老主任の高揚する意識の波が次第に私を浸し、溶かし昂らせ、私の意識も窓の外から西湖の上、静まり返る夜の果てへと無限の波紋を描いて広がってゆくのを感ずる。 (中国語のできない私は、その話のすべてを通訳を介して聞いたはずなのに、通訳の姿と声もこの時点の私の記憶からは完全に脱落していて、老主任と私は直接に語り合い、同じ意識のゆらめき広がる波長を共にしたようにさえ思う) 「世界の無限を記録した無限の言葉」と私も|魘《うな》されたように繰り返した。 「そう、混沌に対する人間の精神の|証《あかし》です。自然はそのままでは無だ。言葉によって自然が世界になる、無限の陰影と層位と筋道と変化と意味を帯びて……」  本当に、いまは閉じている睡蓮の花の昼の残り香を含んで湖上に広がる一面の闇が、ひそかにうごめき流れて微妙な黒の階位を描き始めるような気がした。  ふたりとも、しばらく言葉なく湖上の夜の広がりを眺めていた。  ふっと老主任が振り向いてさり気なく言った。 「その四庫全書が、この杭州にあるのですよ」  思いがけなかったことなので、危うく私は声をあげるところだった。ゆるやかな窓外の闇のうごめきが激しく渦巻き始めるように感じられた。 「そして翁の一味はその四庫全書まで焼き払おうとしたのです」  老主任の声は再び暗く激しい調子を帯びた。杯を持つ手が震えて見えた。 「乾隆帝は全巻を七部だけ刷らせ、北京の二か所と奉天と熱河と鎮江と揚州と杭州の七か所に置かせました。北京、奉天、熱河の四か所は非公開、あとの三か所で公開されたのですが、のちの暴動の戦火で鎮江と揚州では焼失し、ここ杭州にだけ唯一の公開の四庫全書が残っていたのです」  私は胸が不吉な動悸を打つのを感じた。 「それで……ここの四庫全書も焼かれてしまったのですか」  とかろうじて私は言った。現実のこととは思いえない物語の結末を聞くような気分だ。世界に等しい書物を焼く焔と煙は、何昼夜どころか何十、何百昼夜をかけて空を覆いつくしたであろう。  老主任は椅子を動かして体ごと私の方に向き直った。それから静かに言った。 「それを守ったのも、先程あなたが影のような、と言われた西冷印社の人たちだった」 「あの人たち……」 「そう、あの人たちです」  今度はきっぱりと言った。白髪が揺れた。 「あの文人たちが世界を守った……」  私は自分に言い聞かせるように繰り返した。  老主任の顔には微笑が戻っていたが、目は暗くきびしく光っていた。この老文人も一緒だったのではないか、とも思いかけたが、それは尋ねるべきことではなかった。弱々しそうにさえ見えた西冷印社の人たちが、どこでどのようにして、鉄パイプをあるいは自動小銃さえ手にしていたに違いない翁とその手下たちの手から、膨大な四庫全書を守り抜いたのかも、尋ねる気がしなかった。  この古都に、この夜の底のどこかに、世界の無限を記した無限の文字がいまも生き続けていることに、畏怖の念を覚えてわれを忘れた。  取材チームの新聞記者としては、メモ帳を取り出して改めて幾つもの事実を尋ねるべきだったのだろうが、いま老文人が「革命委員会外事辧※[#底本では「辧」の「刀」に代えて「力」、第3水準1-92-50]公室主任」として語ったのではないように、私も取材記者として聞いたのではなかった。混沌の、自然そのものの不可測の暗い力のうねりに惹かれながらも、形ある何かを書き描き続けるという人間の行為に幾らかなりとかかわりと責任をもつ人間のひとりとして、私は聞いてきたのだったし、老文人もそのような私を信じて話してくれたのだと思った。  事実によって世界が成り立っているのではなく、世界を支えるのは理念なのだと考えた。私たちは湖岸の夜に、世界という理念について了解し合ったのだった。言葉が文字が文章が書物がその総体が、世界なのだということを。  和やかに宴を終えて、自室に戻った私は窓を思いきり開いて長い間、推測も想像さえも超えるふしぎな古都の夜の深みを眺めていた。その深みでは、世界を創る力と壊す力と守る力とが絡み合って、激しくひそかに時代を超えて息づき続けているようだった。そしてベッドに入っても眠れぬ昂りのままに思った——不可測の自然の暗い力と言葉との尽きることのない戦いが、人間の歴史なのだ、と。      9  翌朝は朝食後ホテルの玄関前に集まることになっていた。車に分乗して杭州駅に向かい、列車で次の訪問地上海に行くのである。  晴れて爽やかな朝だった。夜の靄は|霽《は》れきって、湖面で、湖岸の新緑の葉並で、光と風がきらめいていた。  背広に着換えて玄関前に下りてゆくと、すでに車が三台並んで待っている。先に来ていた記者のひとりが、写真のアルバムのような紙包みを抱えていた。何だ、ときくと、ホテルのフロントの横で中国の切手のアルバムを買ったのだという。 「フロントに実にかわいい女の子の服務員がいましてね、小柄で玉子型の顔に口紅もつけてない唇が採りたての苺のようで、顔を見つめると、すっと目を伏せるんです。その伏せ方がね、たまらなくいい。むかしは日本にもこんな少女がいたなあ、と懐しくなって、気がついたらこんな物買ってたというわけ」  私はその服務員には気付かなかったが、北方の北京や西安では若い女性でも顔を起こしてこちらの目を見つめ返すのに、ここには慎ましやかな女たちが多いことは私も感じていた。 「おれも切手買ってくる」と言って、若いカメラマンが玄関への階段を駆け上がってゆくのを、私たちは笑い声で見送った。共同取材旅行も二週間を超えると、それぞれに神経も疲れて気分が不安定になりかけていたが、この湖岸の朝は体まで晴れ晴れとしてみな上機嫌だった。  やがて手荷物とともに私たちが分乗し終って車が発車しかけたとき、青い人民服の若い女性が白っぽい自然石の広く長い階段を玄関から急いで駆け下りてくるのが見えた。片手に高く白い布地のものを振りまわして、何か叫んでいる。「忘れ物と言ってますよ」と車のドアを開けながら通訳が言った。 「あの娘だ」と切手の記者が叫んだ。  階段を転び落ちそうになるほど、小柄な娘は真剣に走ってくる。少女といっていいほど若かった。不意に、朝食のあと部屋でトランクを詰めたとき、もうこんなものは荷物になるだけだ、と北方で来ていた長袖の下着を、丸めて屑かごに押しこんできたことを思い出した。 「ぼくのだ」と私は言った。「捨ててきたのに」  車を降りた。部屋の掃除係がフロントに急いで届けたのだろう。全員注視のなかで、幾らか汚れていなくもない自分の肌着を受け取るのは、いささか気恥かしかった。階段下に立った。駆け下りてきた少女は息を切らしている。 「|謝謝《シェシェ》」と中国語で礼を言った。  少女は胸を大きくはずませて両手で下着を手渡しながら、そっと目を伏せた。朝日が|肌理《きめ》細やかな形いい額と眉を照らした。  車の中の連中が拍手した。  彼女に手を振られながら、車はホテルの正門を出る。湖岸の柳の枝がそよいでいる。湖が一面にきらめいている。「湖心亭」の屋根瓦も光っている。私は疎林の中に「西冷印社」の丸い入口を探したが見つからなかった。「孤山」の影が葉隠れに見えた。  その一画の、深く蔦に覆われた朱塗りの窓枠の、書庫風の部屋の異様に濃い印象が浮かんだ。四庫全書は、少なくとも二百巻に及ぶ総目録はあそこにあるのだ、と強く思った。灰色の服に布靴の仙人たちに、ひそかに確かに守られて。  案内者に尋ねてみれば確かめることもできるかもしれなかったが、私は尋ねなかった。 [#改ページ] 遥かなるものの呼ぶ声  京大霊長類研究所の鈴木晃氏が、タンザニア西部で夕日を眺めるチンパンジーを見たと報告している。若い雄のチンパンジーが、川辺の林のひときわ高い樹の|頂《いただき》近くまで登って、山の彼方に沈んでゆく夕日を、ひとりだけでじっといつまでも見つめていたという。  その文章を読んだのは最近のことだが、さらにその何年も前、五十代の終りに近いある日、東京世田谷の自宅の居間で、私は不意に心の中にタ日を見た。冬の終りの弱い日ざしが室内まで射しこんでいたと思うが、わが家の居間から落日は直接には見えない。心眼にいきなり赤く黄色くほとんど金色にくるめく大きなタ日が見えたのである。しかもそれは一望の砂漠の地平線に沈んでゆく夕日だった。  以前から私は砂漠を撮った写真やテレビの記録映像を好んで見てきたが、砂漠に行ったことはなかった。なぜその時、実際には見たことのない砂漠の夕日が、それほど異様にありありと見えたのか、自分でも理解し難かった。ただそんな強烈なイメージを見たという事実、そのことは明瞭に記憶に残った。というのは、その翌日、ある旅行椎誌の編集部から電話がかかってきたからである。 「シルクロードに行きませんか」と編集者は言った。 「有名な敦煌やトルファンの観光ルートなら興味はないな」  と答えてから、咄嗟にこう言っていた。 「もっと奥、タクラマカン砂漠なら行きたい」  相手は困ったらしく、「少し待って下さい」といったん電話を切った。砂漠は旅行会社向きの場所ではない。きっと断ってくるだろうと思ったところ、意外に早く返事がきた。 「結構です、タクラマカン砂漠で」  その瞬間も、とても異様な気がしたものだ。前日私の心に思いがけないイメージを送りつけた何かが、ほとんど同時に、そのイメージの現場に行く手段をも、この物理的現実に用意したみたいだった。  特定の自覚症状はなかったが、少し前から何となく体調がよくなく精神状態も不安定だったので、旅程は一週間だけにした。一週間では往復の旅程に時間をとられて、連絡よく行きつけても現地滞在は、三日目午後、四日目一日と五日目午前中しかとれない。だが特別に開かれた意識状態で特別の場所を訪れる場合、いわば出会いの一瞬で何かを感じることができることを、これまでの経験から私は知っていた。  この旅行には最初から何か常ならぬ力が働いている、という感覚を強く覚えながら、四月初めの晴れた日、旅行雑誌の若い編集者K君と、成田空港を発った。  その夜は北京に一泊。翌日北京空港発、中国北西部の最も奥の新疆ウイグル自治区の行政中心地ウルムチに飛ぶ。北京=ウルムチ直行便はモンゴルとの国境近く、ゴビ砂漠の南端を横断するらしい。旅客機の窓から見えたのはひたすら乾いた黄褐色の地面だった。時に一部砂丘のある砂漠もあったが、町や人家をほとんど見ない。中国十二億の民はどこに行ってしまったのか、とさえ思う。  ウルムチに着いたのは夕暮近く、曇って寒かった。市外の空港に近いホテルに入る。そのホテルが、ロシア人が設計したという大柄でいかにも頑丈そうだが、装飾的な要素の全くない武骨な要塞のような建物。他に泊り客はほとんどなく、いかにも辺境の要塞のように冷え冷えと静まり返っている。人影のない薄暗く広い廊下を歩くと、高い天井と厚そうな石造の壁に、靴音だけが陰々と反響した。  そのせいか、大食堂の隅でほとんどK君とふたりだけが客のような食事をとったあと、寒む寒むとしただだっ広い部屋で、明日天山山脈を南に越えればいよいよタクラマカン砂漠なのだ、と考えても気持ちが一向に弾まない。自分から無理にこの地を希望しておきながら、理由もなく遠い辺地に追放されたような理不尽な気分。本当に自分はこんなところに来たかったのだろうか、と|訝《いぶか》しい気さえして、旅行案内書をベッドで読み返していると、タクラマカンとはウイグル語で「大いなる死の土地」という意味だと書いてあった。  部屋は三階で窓から、まだ葉の出ていないポプラの高い梢の並びとその下の民家の灯が二つ三つぼんやりと見えていたが、その灯も次々と消えるとユーラシア内陸部の硬質の闇の無限の奥行だ。  目的の地の手前まで来ながら自分でもよくわからぬ黒々と不安な思いのために、神経安定剤をのんでやっと寝ついたと思ったら、ひどくなまなましく心乱れたこわい夢をみ続けた。意識の深層が異常にうごめいている。まるでこれから、地表上の一地域ではなく未知の異界に入ってゆくかのように怯えている。      1  午前七時、目覚まし時計で起きたが、眠りも覚めきってなく夜も明けきっていない。こんな辺境の地まで北京標準時を使っているので、夜明けは遅く暮れるのも遅い。  下着をもう一枚余分に着こんでも寒く、着換えてからもベッドに腰かけて、おもむろに明けてゆく青っぽい朝を、二重ガラスの窓越しにぼんやり眺めていた。昨夜眺めたときよりポプラは背が高く、市外の民家は想像したより貧しそうだった。石積みの塀。だが低い屋根から斜めに突き出した煙突から流れ始める朝餉の薄青い煙が、ひどく懐かしかった。あそこにはどんなに貧しくても生活がある……。空港へと向かう車の後の窓から振り返ると、灰色のロシア式ホテルが中世の古城のように、朝靄から聳えて見えた。  午前九時、アクス経由ホータン行きの双発旅客機に乗りこんだとき、朝はようやく明け切った。四十人ほど、ほとんどがウイグル族の乗客を満席に乗せて、機はたちまち天山山脈へと高度を上げる。麓から中腹にかけてかすかに草の生えかけた広大な斜面が広がり、羊の群が幾つも散らばっている。牧歌的な風景と思いかける間もなく、天山山脈の上を飛んでいた。  天山山脈——西はパミール高原から東はモンゴルとの国境近くまで、広大な新疆ウイグル自治区のほぼ中央を二千キロにわたって横断する大山脈。子供の頃から孫悟空の物語で知っていた伝説の魔の山だが、こんな黒々と硬く、まるで鋼鉄の巨塊の列のような山々だとは。中腹から上はまだ雪に覆われ、峰々の南側で雪は薄れて鋼鉄の地肌が露出しているが、北側は深々と白く、峰と峰の間の谷は凍りついた万年雪が氷河の趣である。  山脈中央部には七千メートル級の高峰もある。われわれが越えるのは東端に近く比較的低い部分だが、それでも高さ四千メートルはあるだろう。  中古の旅客機は二基のターボプロップ・エンジンを全開して高山の希薄な空気を懸命にかきわけるが、いまにも胴体の底や翼端を尖った峰の頂に触れるのではないか、と気が気でない。機のすぐ真下を乱立する黒い峰々がぬっと近づいて黙々と後退する。こんなほとんど悪意に近い冷厳な岩峰の上をこするように飛ぶのは初めてで、いかにも「大いなる死の土地」への峠にふさわしいと、魂の芯がひきつる思いだ。気圧の変動まで凍りついたように、機体がほとんど揺れないのがかえって気味悪い。  だがこの鉄岩の峠を越えさえすれば、穏やかに砂丘連なる念願の砂漠だ、と考えたのは間違いだった。ようやく眼下の万年雪が薄れ威圧的な|山巓《さんてん》が低くなって、やっと山脈の南側に出たと思うと、さらに思いがけない異形の光景が開けた。  黒い岩の山が赤土の谷に一変した。谷というより、万年雪の溶けた細流が何万何千年かけて山裾に刻みこんだ無数の浸蝕の痕。巨大な刃物で山脈の南面断崖を滅多斬りしたような残忍な傷。しかもその見渡す限りの斬り傷が、一面に血まみれのように赤いのだ。鉄の山から滲み出し続けた赤錆がこびりついたように見え、悪夢的な錯乱、魔的なめまいに引きこまれて、人間的な理性と秩序への思いきりの嘲笑がひびき渡るようだった。  孫悟空の一行の通ったのが、この山脈の北側の「天山北路」だったか、この南麓沿いの「天山南路」だったかは覚えてないが、魔物、妖怪が跳梁するあの幻想物語が、決して単なる空想ではなかったことを、深く了解した。  旅客機はウルムチから天山山脈をほぼ真直に南に越えてから西に方角を変え、なおしばらく崖に沿って飛び続けたように思う。気味悪く赤い錯乱的な浸蝕の光景が窓の右側に続き、そして左側は青黒く湿ったような不毛の平原と、ところどころに干上がった塩分の荒々しく白いひろがりだけ。  昼前、給油のための中継地アクスの飛行場に降りる。  アクスは天山山脈の南麓に沿うシルクロード三道のひとつ「天山南路」の街。地図の上では、東西に長い天山山脈のほぼ中央部に近いのだが、飛行場からは白茶けた乾いた土地と数えるほどの民家しか見えない。  トランジットカードを配られて、木造平家建ての飛行場の建物に入った。灰色っぽい水性塗料を荒っぽく塗った薄板で仕切られただけの部屋。軽便椅子と傾いた机。机の上にお茶の入った薬缶と白い茶わんが置いてある。ほとんどがウイグル人の同乗客たちと向かい合って壁際に腰かけていると、広い中国の端まで、あるいはトルコ語系住民の多い中央アジアの入口まで来た、ということをひしひしと感ずる。  給油は三十分もあれば終るものと思って、おとなしく待っていたのだが、一時間過ぎても飛行場職員から何の通告もなく、次第に苛立ってきた。待つのが退屈なのではなく、目的地ホータン滞在と砂漠行きの限られた時間がどんどん減ってゆくためだ。だが同乗客たちはこんなことには馴れているらしく平然としている。昼過ぎて職員が大皿に蒸しギョーザを大盛りにして現れたときだけは、いっせいに声を上げて立ち上がって、立ったまま勢いよく食べ始めた。  職員は若い漢民族だ。私とK君は待合室を出て行こうとする職員をつかまえると、大型の手帳の頁に「出発遅延、原因如何」とボールペンで書いて破って渡した。漢字の字体はいまや日中両国でかなり違っているし、怪しげな漢文で意味が通じるのかどうか甚だ心配だったが、相手は直ちに手帳とペンを渡せと身振りで示し、達筆とは言えない漢字を頁に大きく書いた。 「和田大風沙」  和田はホータンの漢字表記、風沙は砂風のごとだろう、と了解して、私たちが驚きと落胆の表情をすると、何をそんなに驚くのか、というようににこやかに笑いながら、残り少なくなったギョーザを指して、早く食べろ、と目付きで促す。  これまで本で読んだりテレビで見た砂嵐のイメージを思い浮かべる。あたりじゅうの砂を巻き上げる黒い風と天が威嚇するような轟き。善いことをした覚えはほとんどないが、それほどの悪事を働いた記憶もないのに、何が天の怒りを呼び寄せたのか。そら恐ろしい気分になりかけて、心配するK君を引っ張って建物の外に出た。ここアクスの空は灰色の雲に閉ざされて、風は全然吹いていない。飛行場には柵もなかった。  少なくともあと一、二時間は飛行機は飛ばないだろうと、飛行場の外までぶらぶらと出た。町とは離れているのだろう、飛行場周辺に建物は数えるほどしかなく、冬枯れたままの乾いた野面を、それでも羊の群が蹄で土くれをかき分けては伸び始めかけた草の芽をほじくっている。羊の毛は黄色く汚れていた。いじけた枝だけのポプラが数本。日ざしの気配さえない。  茫然と煙草を吸う。いつのまにか羊飼いのウイグル族の少年数人が、目の前に立っていた。そして煙草をくれ、と手を差し出している。煙草の箱を出す。一本ずつ取ってライターも、という身振り。別に礼を言うのでもなく、火をつけた煙草を、見たところ十歳ほどの少年すべてが、馴れた手つきで並んですう。全員人民帽のようなひさしのついた帽子、ジャンパーに長ズボン、ズックの運動靴。そのすべてが土埃だらけだが、決して貧相ではなく、態度はむしろ微然と見えた。  一人前の羊飼いの面魂とも見えるけれど、黄色く乾ききった荒野の真中で平然と煙草をすう子供たちの姿は、何か冷酷に無残だ。  いぜんとして雲も動かない。大人の姿はない。薄汚れた羊たちは新芽をほじくり続けている。賽の河原のようだった。  午後五時すぎ、ようやく飛行機はアクスを飛び立つ。 「大風沙」のため、六時間近くつまり日中の半分の時間を失ったことになる。予定通りならホータンに午後一時着、ゆっくりと砂漠まで行って夕日を眺められるはずだった。  タクラマカン砂漠は、天山山脈と|崑崙《こんろん》山脈に挟まれたほぼ楕円形の広大なタリム盆地の、ほとんど全面を占める。その中心よりやや西寄りの部分を、機は真直に南下しながら砂漠を縦断して飛ぶ。  いよいよ眼下に大砂漠が開ける、もしかすると落日さえ見えるかもしれない、と思いこんでいたのに、窓際の席で窓に顔を押しつけるようにして目を凝らし続けても、何も見えない。小窓から覗ける限りの上も下も遠くも近くも、ただ一面の仄明りである。灰色でも薄青くもなく、かすかに紅色を含んだ柔い黄土色の不透明な明るさ。飛行機の翼端を除いて、一切の形あるものが見えない。アクスでは垂れこめていた雲の形さえ、遍在する仄明りに溶けてしまっている。  しばらくどういうことか理解できない。ただその不透明さは不安でも不快でもなく、むしろ陶然と夢心地に近かった。果てもなく大きく柔く、なま温かく幾分なまめかしくもある何ものかにそっと抱きかかえられている気さえして、機がいま向かっている南の崑崙の山には古来、西王母という女神が住むと伝えられてきたことを思い出したりした。最も古くは虎歯豹尾の半獣半人だが、下っては絶世の美女となり、さらに道教では東王父と並ぶ最高の女神となる。そんなむかし読んで忘れていた古い伝説が、いわば触覚的に甦ってくるのだ。  形ない幽明の境域に妖しく誘いこまれ迷いこむ感覚。  すでに砂漠の中央部の上空にさしかかっているはずの時間になっても、いぜんとして砂丘の頂ひとつも見えず、雲の影さえ上方に見通せない。黄白色の極微粒子が遍在して自由に浮遊している中を進んでいるようだが、全く思いがけないその現象を納得できない。  もしかすると、魂だけが西王母の許に還ってゆくのではあるまいか——といった思いが妙になまなましく心を|過《よぎ》って、そんな幻想を自分が少しも恥じていないのが、いっそう不可解である。 「何だかご機嫌ですね。こんなに予定が狂ってしまったのに」  と隣席のK君が言った。 「砂嵐を恨んでも仕方がない」 「それはそうですが、旅に出てからだんだん元気になるようで。こんな奥地まで無理ではないか、と内心心配してたんですよ」  心優しいK君は本気で言った。  アハハ、と私は笑った。  ついに変らなかった黄白色の仄明りの中を、ホータン空港に着陸した。午後七時に近いが、夕暮の気配はない。おぼろな太陽の位置は地平線よりまだかなり高かった。  タラップを降りながらK君が怪訝そうに言う。「六時間も到着を遅らせた大風沙はどこに行ってしまったんだろ。本当に砂嵐があったのかなあ」  本当にそうなのだ。風はほとんどなく、滑走路のわきにも空港建物の蔭にも、砂が吹き寄せられた痕などどこにもなく、空が穏やかに一面黄白色に煙っているだけである。地表の視界は正常で、別に息苦しくもない。  空港建物の前で待っていたホータンでの若いガイドに早速尋ねた。 「砂嵐はどうなったのかな」  色が白くて温和な顔だちの漢人青年はゆっくりと日本語で答えた。 「砂嵐? ああ風沙ですね。あれですよ。あれが少し濃くなって着陸が難しくなっただけ」  空の黄白色の靄のことである。 「あれが砂か」 「砂粒がこすれてできる細かな埃ですね。この季節、空気が暖まってくると、それが空に昇って漂うのです」 「強い風で砂が飛び荒れるのではない?」 「そういう嵐もありますが、このあたりの空はたいていいつもこんなですよ」  砂粒が吹きつける黒い嵐を想像して緊張していた私は、関節をはずされたような気分だ。苛烈な砂漠世界を思い描いていただけに、春霞が|藹々《あいあい》と漂うようなこの和やかな空に、直ちに現実感を覚えられない。異界めいた妖しい気分は、辺境にしては整った空港を抜けて車に乗っても続いている。  空港から広い道路が真直ぐに町まで通じていた。ユーラシア大陸の土地でしばしば出会う、路面の中央部は舗装されていながら両側は何となく土の地面になっているあいまいで懐しい道路。  その土肌の路肩に沿って、見事なポプラの並木が透視図法の模範のように連なって、遥か視野の焦点に収束している。しかも二、三メートル間隔に一本ずつといったケチな並木ではなく、数十センチ間隔の列が三重四重にほとんど隙間なく密植されていて、並木というより立木の厚い壁だ。高さは二十メートルにも達して、ちょうど新芽が出そろい始めていた(砂漠の北のアクスではまだ芽は出ていなかったのに)。  ポプラ特有の艶のある白い幹と草色の枝葉がつくり出すその高い側壁に挟まれた直線道路は、まるで天に至る特別の道のようで、ナルホド、ナルホドと意味もなく私は呟き続ける。  大さな黒い帽子に古びた黒マントを羽織った自ひげの老人が、ロバに曳かせた二輪の馬車の上から長い鞭を振っているが、主人と同じくらい年をとっているらしい老ロバは一向に歩みを速めたりはしない。永遠をめざして永遠に旅を統ける黒衣の老人とロバ。半日の旅程を失った恨みも、どこかに気化してゆく。  そうして車で約十五分ほどの”永遠への通路”を通り抜けて、ホータンの町に入った。  ホータン(和田)は、大半が砂漠のホータン県の県都、人口約十一万。砂漠の果てに想像していたよりはるかに立派な小都市だった。舗装された大通りが交差する市の中心には、中央アジア風装飾の新しい文化会館があり、近代建築の行政官庁のビルがあり、絹織物の工場も映画館もあり、町はずれの川岸では中央アジア風の露店バザールが開かれていて、赤い毛織りの絨毯とラクダと穀物とスパイス類が売り買いされ、原色色とりどりのスカーフを頭に結んだウイグル族の若い女性たちが、売りもののラクダやロバの糞尿の臭いと土ぼこりの中を、笑い声をあげて行き交っていた。  漢人の姿がほとんど見られない。ウイグル人がホータン県住民の九十七パーセントを占めていて、漢民族は三パーセントにすぎない、と漢人ガイドのC君は言った。ウイグル人も正式には中国国民であって、漢人がウイグル人を支配しているわけではないが、この極端な人口比率の差は何か不自然だ。 「きみはここの生まれ?」 「ホータン市の生まれです」 「お父さんは官吏?」 「軍人です。小さいときからウイグル人の子供たちと一緒に遊んできましたから、全然違いを感じません。ウイグル語もウイグル人と同じにしゃべります」  おっとりとして率直な人柄のC君の言葉を信ずることにするが、ウイグル人に聞けば、C君とは違ったニュアンスで漢人のことをしゃべるだろう。  ウイグル族——紀元八世紀に|突厥《とつけつ》に代って、モンゴル高原を支配したトルコ語系遊牧騎馬民族。九世紀に内乱や異常気象やキルギス人の攻撃によって分裂して南に移動し、タリム盆地に入って定住した一族が、現在ここのウイグル人住民たちの祖先のはずだが、その前にここにどんな人たちが住んでいたのか、出発前あわただしく調べた書物ではわからなかった。  だが紀元前二世紀に漢の武帝が派遣した張騫が大月氏国からの帰途この「西域南道」ルートを通っていて、その後、西からは馬をはじめ、|玉《ぎょく》、|玻璃《はり》、ざくろ、くるみなど、東からはもちろん絹が往来を続けている。このうち中国貴族たちが偏愛した「崑崙の玉」を産したのが、このホータンである。ある書物に、ウイグル人たちは「先住のアーリア系住民を追い払い、あるいは混血して」タリム盆地に住みついた、と簡単に記されていたが、紀元九世紀以前にこの地域に先住していた「アーリア系」つまりインド・ヨーロッパ語族の人たちのイメージが私には浮かばない。ただ漢代にタリム盆地の東端に栄えた楼蘭の遺跡から発掘された若い女性の乾燥ミイラ、いわゆる「楼蘭の美女」の顔面の起伏が深く、アーリア系の面影を伝えていることを知っているだけだ。  九世紀以前この砂漠の縁にオアシスをつくり住んで、崑崙の玉を磨いた人たちの顔が、私には見えない。ウイグル人たちの背後に、顔のない人たちの影がうっすらと浮かんでいるような奇妙な感じを、ウイグル人九十何パーセントという町を歩きながら覚えるのだった。  政府の接待所に泊まる。県内の村々から代表者たちが会議や集会のために、あるいは中央からの党幹部たちが視察のために来て泊まる施設で、旅行者用のホテルではないが、日本の地方都市のビジネスホテルなどより泊まり心地はいい。水洗トイレにお湯の出るバスもついていて、室内の床には丹念に抽象的な模様を織りこんだ地元製らしい赤く分厚い絨毯が敷かれていた。  長途の旅というより異次元の世界に迷いこんだような想念の緊張の疲れから、早々とベッドに入る。明日はいよいよ「大風沙」に隠れてこれまでちらりとも姿を見せなかった砂漠に対面できる、とようやく安心して、記憶する夢もなく眠る。      2  目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました途端に、悪い予感がした。室内が薄暗かった。薄地の白いカーテン越しに、窓も灰色。しかも雨垂れのような音が聞こえるではないか。砂漠に雨? そんなことがあるはずはない。  だが起こるはずのないことが、ここでは次々と起こる。窓を開けると、激しくはないが、本降りの雨が|蕭々《しょうしょう》と降っていた。 「砂嵐で半日遅れてやっと着くと、今度は雨か」  沈んだ気分でK君と朝食をとったあと、迎えに来たガイドのC君が言った。 「ここでは一年に三日しか雨は降りません。多分午後には晴れるでしょう」  仕方なくC君のすすめるままに、砂漠とは反対の北の方、崑崙山脈の麓にあるという古いホータン王城の遺跡に行く。 「一年に三日の雨にぶつかるとは。きみは何かとても悪いことをしたことがあるんじゃないか」  そう言うとK君が「とんでもない」と真顔で否定するところをみると、私の罪業のせいなのだろうと、C君が用意してくれた傘をさして小雨の遺跡をうろつきながら、記憶の暗い襞を思い起こしてみたりする。  言葉なく背後から何者かが容赦なく責めたてるような、骨まで冷気がしみる荒涼そのものの荒地。泥煉瓦でつくられた城壁や僧院や住居の跡が、長年の風雨に崩れて溶け、装飾品か日用品か、赤茶色の土器の破片が一面に散乱している。考古学者なら大喜びするかもしれないが、私には時間の非情な破壊の現場が無残なだけだ。  すぐ近くに崑崙山脈が黒々と連なって見えるが、高い部分は灰色の雲に包まれて凝然と沈黙し、刺すように冷たい風が吹き下ろしてくる。草も木もなく、小石まじりの荒れきった暗褐色の地肌が見渡す限り広がっている。荒野の中をえぐるようにして川が、ホータン市の方へと流れていた。 「この川が白玉河。もう一本黒玉河もホータンで一緒になって、砂漠に流れこみますが、有名な崑崙の玉がこの川床でも採れるんです。雪解け水に流されてあの山から転がってきます。いまでも探せばありますよ」  密雲の奥に|匿《かく》れた崑崙山から吹き降りてくる霊気と冷風に、コートの襟を立てマフラーをきつく頸に巻きつけても、体の震えが止まらない。  本当に午後になったら雨があがって砂漠に行けるのだろうか、と私とK君は気が気でないが、ガイドのC君は「雨がやまなければ、玉の細工場でも見に行きましょう」と、ひたすら砂漠に行きたがる私たちの気持ちがふしぎでならないらしい。  昼近く市内に戻り時間をかけて昼食をとったが、雨はかえって強まりあたりは仄暗くなるばかりだ。あと時間はきょうの午後と明日の午前中しかない。 「雨でも行こう」  と食卓を立って私が強く言うと、C君は驚いたが、雨傘を持って車で砂漠に向かう。  雨のしぶきで窓から外がよく見えない。午前中の山麓と違って市の北方には畠が広がっているらしく、芽が伸び始めた緑色の平面がぼんやりと浮かび、防風のポプラ並木が白い壁のように流れた。舖装道路をはずれると、車輪は幾度も泥道で空転する。  三十分も走ったろうか、小麦畑とポプラと泥壁の農家のぼやけた像が消えた。 「ここですよ」  とC君に言われて、車のドアを開けると、目の前に鳥取の大砂丘クラスの砂丘があった。農耕地の村との間に防砂林も中間地帯もなく、いきなり砂漠だ。  とうとう来た、と持ってきた傘もささないで興奮して雨の中に出た。  だが雨の砂漠とは……。砂丘は濡れて暗い土色。何か巨大な獣の死体がどたりと息も体温もなく横たわっているようで、シャープな稜線も砂粒のきらめきも、世界で二番目とか三番目といわれる大砂漠の広がりもない。灰色の雲が重く垂れこめ、雨脚が視界に揺れる紗のカーテンを引いていた。眼前の砂丘の背後にふたつ三つほどの砂丘の存在がぼんやりと認められるが、その先は雨と霧が匿している。眼鏡のレンズの表面を次々と雨滴が流れる。それでも雨に打たれながら三十分ほど、砂漠の端の端に立っていた。  言葉もなく、髪から雫を垂らして幽霊のように引き返した。  暗くなり始めてから雨がやんだ。接待所の食堂で夕食のあと、K君とふたりで接待所の近くを歩く。暮れきるのが遅い空に雨の名残の霧状の細かな水滴が浮遊し(前日の砂埃そっくりに)、それが街灯の水銀灯の明りを反射して、街ごと水底に沈んだように異様に青い。本当にブルーなのだ。 「北欧の白夜に似てますが、これはまさに青夜ですね。こんなの初めてだ」  世界中を旅行している旅行雑誌編集者のK君も驚いている。  夜に入ってからは、昼間でも多くない車の通行はめっきりと減り、出歩く人影もほとんど見かけない。官庁の建物は海底の岩のように灯を消して静まり返り、商店も扉を閉ざしている。道路に面して明りのついているのはウイグル料理の店ぐらいで、ガラス戸越しにテーブルの上の瞑目した羊の頭が見え、その肉を焼く香料の多いタレの濃い匂いが、路上の霧滴にねっとりとまといついている。 「うんと上空で月が|皓々《こうこう》と冴え返っているのかもしれないし、崑崙山の霊光が射しこんでいるのかもしれないし……どうしてなのかわからんよ。わかるのは、この世のものではなく幻想的だということだけだ。快い夢のようなのか、気味悪いのかもよくわからない」  そう言いながら、ひと気ない道路から道路へと、足の向くままに私たちは夜の街をさまよい歩いたが、大砂漠に面した街で、水底を漂う青い幻想の気分に浸されるとは、想像もしなかったことだ。ひょろ長く白っぽい街路樹のポプラも、飄然と水中に浮いているようで、植物というより一種霊的な白い影の列に見えた。 「明日こそ晴れるといいですね。こんな辺境の町から、帰りの飛行機の予約を全部変更する手続きもできないし」  と呟くK君に、私はひとりでにこう答えていた。 「間違いなく明日の朝は晴れる。砂漠に入れる」  私が何となくそう考えたのではなく、私の体の細胞たちが声を合わせて断言したようで、私はそれを他人の声のように聞いたのだったが、驚きもしなかったし意外でもなかった。天山山脈を越えてから、いや東京の居間で砂漠の夕日をありありと幻視したときから、私を動かしているのがもはや私ではないことをひそかに感じていたからである。  いまや私を動かしているのは、”私の”とは呼び難い意識の遥かな深層の何か、身体自体の、細胞たち自身の無意識の意識であり、それは不意に出現する魔的な風景とか、砂嵐とか、一年に三日しか降らない雨とか、この青い幻想的な夜気とか、そんな自然の偶然の動きと、どこか微妙に、ある意味では密接に連動していることに、私は気付き始めていた。  どうしてそんなことになったのか全く不可解だが、「大いなる死の土地」と呼ばれるこの土地で、底深く大きな何かが私に起こっている……。いよいよ深く青くなるふしぎな夜の中を歩き続けながら、私は本気でそう思った。      3  翌日最後の日にようやく晴れた。だが予定では昼過ぎにホータンを出なければならない。残された時間は午前中しかない。  前日と同じ道を車で行く。前日は窓が雨に濡れてぼんやりとしか見えなかった周囲の風景がよく見えた。雨に洗われた畠の小麦がみずみずしく青い。女性も子供たちもまじった農民たちが多数畠に出ている。道路わきで泥まみれになってポプラを植樹している人たちもあった。  モンゴル高原を追われてこの土地に入ってから、崑崙の雪解け水を利用し防砂のポプラを植えながら、営々とこのオアシス農地を作り上げてきたウイグル人たちの長い労苦の日を思った。泥壁の農家は粗末で生活はいまもきびしそうだが、春の朝日はきのうとは別の世界のように明るく穏やかだった。発情したロバが不意に甲高く物悲しい叫び声をあげて鳴き交す。  きのうと同じオアシス耕地のはずれで車を下りる。同じ大砂丘が目の前にあった。だが今朝はその背後に同じような砂丘が連なっているのが、果てしなくどこまでも見渡せる。運転手とガイドのC君とコートを車に残して、私とK君は海に駆けこむ子供のように狂喜して砂丘に走り登った。  砂丘は前日の雨の水気を含んでいるが、表面はすでに乾いている。急な斜面の砂は軽やかに崩れ、私たちは幾度も両手をついて這い登る。体じゅうの細胞がピチピチと音をたてて弾けるようだ。  ふたつ三つ四つ、私たちは声もなく大砂丘を走り登り、這い登っては滑り降りた。 「とうとう来た」  と声をかけ合ったのは、もう村はずれのポプラの梢も完全に見えなくなってからだ。 「これが砂漠、本ものの砂の。土漠の荒地ではなくて……」  息を弾ませて幾度も同じことを叫んだ。長く尾をひく異様に甲高いロバたちの鳴き声も聞こえなくなって、まわりじゅうの砂があらゆる音を吸いこむ完壁の静寂。空は晴れ上がって雲ひとつないが、きのうあれだけの雨にもかかわらず、砂埃の微粒子がもう一面に浮遊し始めていて、日ざしは薄膜を透したようにやわらかい。何百何千と砂丘が連なりひろがる地平の果てはぼやけている。烈日の砂漠、痛いほど透明な青すぎる空という一般的イメージとは違うけれど、吹き抜けのサハラ砂漠ではなく、これが東アジアの大盆地の砂漠なのだ。  砂丘の頂ごとにあたりを見渡しながらどんどん内側へと入りこんでゆくにつれて、初めはどれもただ大きいとしか見えなかった砂丘のひとつひとつの色と形が少しずつ違っていて、ひとつとして同じ砂丘がないことに気付いて、次第に畏怖に近い感情を覚え始める。  ようやく最初の興奮が幾らか鎮まると、ひときわ高い砂丘の頂に私たちは腰をおろして、改めて周囲を見まわした。普通砂粒はどれも同じように見えるが、石英、長石、磁鉄鉱、角閃石、軽石など母体岩石の違いによって色と光り方が微妙に異る。掌にすくって見ると、黄鉄鉱らしい金色の粒子や黒い砂鉄がかなり多い。そのためにひとつの砂丘でも、白っぽくきらめく部分、しっとりと砂色の部分、黒っぼく翳ったように見える箇所と、決して一様ではない。  また砂とは直怪0・05ミリから2ミリまでの岩石の砕片のことだ。ということは、砂粒には0・05ミリから2ミリまでの大きさと重さの違いがあり、さらに形状にもさまざまな歪みや変形がある。その微妙な差異が、風に吹かれたときの動き方、流れ方の違いとなり、この息をのむ風紋の波形を生み出しながら、個々の砂丘の形が無限に異ってもくるのだ。  実際私たちはいま、盛り上がった面、えぐられた窪み、正確な斜面、無数のシワが寄り集まった面、なだらかな|褶曲《しゅうきょく》面、断崖のようにほとんど垂直な面と、実にさまざまな砂面の組み合わせに囲まれている。そしてそれらの面と面が分かれる境界の稜線も、大きく湾曲する線、のびやかな斜線、急角度の直線、ゆるく渦巻く線、波打つ線、放物線と双曲線の一部と変化する。私が考え想像しうる限りのあらゆる線と面があった。  しかもどちらの方角からともわからない微風によって、砂粒は絶え間なく転がり流れ続けている。足もとをじっと見つめていると、砂一粒一粒のひそかな動きがはっきりわかり、稜線がみる間に移動してゆくのが見える。そうして砂丘群は互いに形が異っているだけでなく、それぞれの砂丘の形も次の瞬間にはもう同じではない。  日頃私たちは、どうしようもなくバラバラなことを砂のようだと言い、不毛単調の極みを砂漠のようだと形容するけれど、ここは大盆地が干上がって吹き寄せられて溜った砂の単なる堆積ではない。一粒一粒は小さいながらも独立した砂粒たちが、砂丘というひとつのまとまり、それぞれの形を、みずからそしておのずから生み出しつくり出す。泥のようにひっつき合い狎れ合って固まるのではなく。  そしてその形の何という自由な変容。その表面の何という美しい風紋の動き。陳腐な形容詞としての砂漠ではなく、これが真の生きた砂漠だ、と私は繰り返し自分に言った。主語のない動詞の永遠の現在進行形。  事実、砂丘をひとつ越えると、次はどんな形の砂丘がありどんな展望が開けるのか、と砂漠はさらに奥へと誘い続けてやまないのである。ひとつの砂丘の頂に立って黙ってあたりを眺め渡しているだけで、少しも飽きることがなかった。  もし宇宙が素粒子たちの組み合わせとその変容によって成り立ち運行しているものなら、私はいま宇宙がその仕組みの秘密を惜し気もなく晒している現場にいる。砂という最も単純な物質が無言で語る世界の最も深い秘密。最も直接に身体的で、最も深く抽象的な。  この変容のドラマには主催者も計画者も指揮者もいない。物質自身の、自然そのものの自己形成、自己変容のドラマ。決して神秘的ではないが、これ以上の神秘があるだろうか。砂漠の内側に入りこんで、そのことがありありとわかる。考えるのではなく身体そのものがそう感じとるのである。  次第に強くなる光と風のなかで、砂たちがいよいよ乾いて軽やかに弾み、転がり、風紋を組み上げては解いてゆくそのかすかなリズム、砂漠そのものの呟きがまわりじゅうで鳴っている。 「テープかCDのデッキを持ってくればよかったなあ。ここにいると無性に音楽が聞きたくなってくる」  と音楽好きのK君が言った。 「ブライアン・イーノの"The Plateaux of Mirror"のような曲」  と私も言った。 「無理して来てよかったですねえ。初め砂漠に行きたいと言われたとき、何を考えてんだろ、とあきれましたけど」  しみじみとK君は言う。多分彼の身体も私の身体と同じように、あたり一面の光と砂のリズムを感じとっているに違いない。  私たちはまた新しい大砂丘の頂に坐りこんでいた。もう幾つ砂丘を越えてきたか覚えていない。入ってきたのがどの方角だったかもわからないが、そのことが少しも不安ではなかった。 「実はね」と握った砂を斜面にこぼしながら私は言った。「何年も前、ふっと思い立って鳥取の砂丘に行ったことがあったんだ。ところがまわりを砂防林に囲まれて、風が吹き抜けられなくなって、砂丘は死にかけていた。砂は動かず風紋も流れない。自分でもよくわからない悲しみと怒りに駆られて帰ってから、『砂丘が動くように』という長篇小説を書いたんだよ。せめて小説のなかで、砂丘を生き返らせようとして。四年も前のことだったけど、いま自分が書いたその幻想の場面の中にいるような気がするよ」 「ぼくもさっきからずっと覚めない夢を見ているような信じられない気持ちですよ。仕事柄、世界のいろんなところに行ったけど、こんな気分になったのは初めてだ」  物静かなK君が興奮するのを見るのも初めてだった。 「小説のなかで砂丘が蘇る幻想的な場面を思いきって、自分でも気がおかしくなるんではないかと不安になるまで書いたつもりだったけど、現実の砂漠はどんな幻想より幻想的だ」  そう言いながら、私はここが「大いなる死の土地」と呼ばれてきたことについて考えていた。  ごく表面的に受け取れば、この広大な砂漠の奥まで迷いこむと(とくに灼熱、砂嵐の際には)生きて戻れない、という意味だろうが、ウイグル人たちはモンゴル高原でシャーマニズムを、タリム盆地に移住してからはペルシアのマニ教を、インドの仏教を、そしていまはアラブのイスラム教をと、複雑な宗教的体験を経てきた民族だ。そんな単純な現実的意味だけでそう呼んだろうか。死こそ幻想だ、ということを彼らは「タクラマカン」という名前にこめたのではなかったろうか。  畏るべき幻想の空間——大いなる死の土地。そしてその幻想は、このように晴やかに精妙なのだ。  私は先程から、淡く煙る地平線の上にちらつく白い幻影を見つめていた。ガウディが設計したバルセロナの、四本の尖塔のある幻想的な教会に似ているが。ただしその構造物は、極細の絹糸か、グラスファイバーか、光の繊維のようなもので比類なく繊細に織り上げられていて、可視と不可視の領域の中間に純白にきらめきながら浮かんでいる。内側のアラベスク模様が透けて見える回教寺院のようでもあるけれど、教会とか寺院の建物そのものというよりそれらの精のゆらめきのようだ。  そして天使たちの合唱のような、幼児たちの笑い声のような、意味不明の澄み切った声がまわりじゅうのサラサラという砂の流れの音と重なって、遠く近く高く低く聞こえている。  限りなく繊細で限りなく広大なもの、それが世界で、そこに還ることが死なのだ——とそのふしぎな幻影は、そっと告げ知らせているようだった。心の奥が奥にゆくほど開いて、微光を発するような感覚。「砂に還る」という言葉が爽やかに身体のなかを流れた。  過去の記憶がみるみる気化してゆき、いつのまにか現世の時間感覚が完全に消えていた……。  いきなりK君が悲鳴をあげた。 「こんなに時間が経ってた。飛行機の出発に間に合わなくなります」  腕時計を見ると、すでに砂漠に入って三時間が経過していた。三十分ほどしか経っていないつもりだったのに。  接待所に急いで戻ってあわててトランクを詰めこんでいると、いったん事務所に戻ったガイドのC君が駆けこんできた。 「飛行機の出発が延期です。新しい出発時刻はわかりません。しばらくここで待っていて下さい」  それだけ言ってC君は事務所に戻った。私はK君の部屋に行ってふたりで大笑いした。 「きっときょうはアクスが大風沙なんだ」  私たちはK君持参のインスタントコーヒーを入れたコップを持って、接待所の庭に出た。日当りのいい庭には、桃に似た|杏子《あんず》の大樹の花が満開だった。  その大樹と向き合う石のベンチに坐る。きのうも今朝もあわただしくて気にとめていなかったのだが、改めて見上げると、枝にいっぱいの杏子の花は清楚で華やかで|芳《かぐわ》しかった。穏やかな春の昼の日ざしが、淡紅色の花弁の一輪一輪をまともに照らし、濃く甘い香が庭にこもっている。  ベンチにも春の光がさんさんと降り注いで、汗ばむほどである。思いがけなくできた|間《ま》の一刻が、光と香と砂漠での興奮の余韻で膨らんでいる。杏子の大樹と砂丘の連なりが重なって見えるのだ。 「何だか気味悪いほどいい気持ちだな」  K君の作ってくれた熱いコーヒーを少しずつゆっくりと飲む。戦後、東京で桜の花見というものを、私は一度もしたことがない。戦争中の桜的なものへの不快なこだわりが心の奥に尾をひき続けてきたからだが、いま似たような満開の花を前にして、その長い間のこだわりが消えている。わずか三時間の間だったにもかかわらず、砂漠の風景が私の意識を底から吹き払っていったような具合だった。うつろで気だるく平安で、満ち足りている。魂が何か大きな仕事を成し終えたように。  玄関の前で接待所の若いウイグル人女性の係員たちが輪になって、何がおかしいのか笑い声を上げていた。イスラム教徒の彼女たちはどこでも必ずスカーフを頭髪に留めているのだが、ひとりが原色のスカーフを解いて指先でクルクル回していた。ペルシアの血がまじっているらしく、目が大きく肌の白い娘だ。彼女たちもいま昼休みなのだろう。  淡紅色の雲のような杏子の大樹が、そんな少女たちの笑い声を、私のふしぎな心の膨らみを、晴れ晴れと眺めおろして抱きとめている。その花々の背後に、砂漠の果ての砂色の地平線が、その上の奇妙な光の繊維の構造物が見え隠れしている。砂粒が遠い砂丘の稜線を流れ続ける音……。 「いま死んでもいいな、コトリと」  思わずそう呟くと、K君が驚いて私を見返した。  C君が戻ってきた。 「飛行機の出発は夕方の六時だそうです。もう一か所どこかに行けますよ」 「砂漠」  と私が即座に答えると、C君は本気にあきれたようだ。私とK君は声をあげて笑う。大風沙と一年に三日の雨が奪った時間を、砂漠がいま私たちに返してくれる。  C君は運転手と相談してから肩をすくめながら言った。 「わかりました。いいですよ。別のところに行きましょう。それにしても、どうしてそんなに砂漠にばかり行きたがるんです」 「わからんな、自分でも。きっと砂漠が呼んでるんだろう」  私は本気で答えた。 「東京にまで聞こえたものな、その声は」  と言いながら、それは大いなる死の砂漠よりもっと大きなもの、生死の境界さえ超えて遥かなものの呼び声なのではないかと思った。  タンザニアのチンパンジーも、落ちてゆく大きな夕日の向こうに、その声を聞いていたのだろう。  車はいっそう明るい午後の光のなか、本来なら無かった時間のなかを、これまで知らなかった方角へと市街を抜けて走った。C君もくわしく行先を言わないし、私たちも尋ねない。薄緑色のオアシス農地が広がる先に、長い土手が連なって見えた。ゴミが浮いて濁った溜池のようなものを想像した。土手の下で車がとまり、私たちは土手を登った。土手の下に灌漑用の水利施設らしい建物の煉瓦の壁が、物憂く赤かった。  土手を登りきって息をのんだ。満々と水を湛えた湖が、視野いっぱいに広がっていた。しかも岸辺の水底の石ころのひとつひとつが見分けられるほどその水は澄みきって、水面が鏡面のように静まり返っている。  池や湖や川の色は、周囲の山や林、空と雲の色の反映である。だがいま空には雲はなく、砂ぼこりの微粒子が乱反射する黄白色のやわらかな光が遍在し、周囲には山も林も建物もなく、遥か対岸に砂丘のなだらかな起伏が連なっているだけ。湖は純枠に水そのものの色、つまり無色に近い。長い土手の上には、私たち以外の人影はなかった。湖面に小舟も水鳥の姿もない。風がないので波もない。  オアシスと砂漠の境につくられた人工湖らしいが、天然の丸石と土を積みあげた土手の他に、コンクリートの堰堤のようなものは見えない。崑崙山脈の雪解け水を|堰《せ》き止めたものに違いないが、白玉河も黒玉河も、水の入口も出口も見当たらないので、天然の湖のようにしか見えない。足もとの土手を除けば、砂という物質に囲まれた水という物質だけがある。とにかく広く、限りなく静かだ。 「こんなに素晴らしいところを、どうしていままで黙ってたんだ。知らないで帰るところだったじゃないか」と言うと、「そんなにいいですか」とC君は笑うだけだが、のんびりしたC君が最後までこんな場所をとっておいてくれたことに、心から感謝した。  思いがけない砂漠の湖。それは天上の湖のようで、岸に立っているだけで心がどこまでも開いてゆく。午前中より砂が乾ききったらしく、砂漠はいま白く遠く、水と光の彼方の一線である。  私が来たのではなく何かに呼び寄せられ、私が見ているのではなく見せられているのだ、という気持ちを強く覚えた。この風景は、この世の時間の予定の欄外の、ありえなかったはずのものである。その非現実性が、逆にいかに深くリアルであることか。  子供の頃から肉体的にも意志的にも、自分の生命力が人なみ以下だと思ってきたのに、五十代の終り近くまでどうにか生きてこられて、いまここにいるということが、小さな奇蹟のように思われた。いやそうではなくて、実は自分では知らないうちに私はもう死んでいて、少なくとも死にかけていて、それでこんなこの世のものならぬ風景の只中にいるのだ、と囁く声のようなものが体の奥の方から聞こえる気もした。 (ほぼ一年後、私は臓器の悪性腫瘍を偶然に発見されるのだが、この時すでにガン細胞の急速な増殖を私の体は知っていたはずだ)  それから砂漠の方へと長い土手の上を歩いた。土手は長かったけれど、かつて覚えたことのない満ち足りて平安な気分が続いていた。自分の人生の欄外を歩いているふしぎな気持ちだ。  湖岸の砂漠は汚れかけていた。砂ぼこりが沈澱して砂丘が土丘化し始めていたのである。風は吹き通るとしても、これだけ広い水面から蒸発する水分のせいだろう。午前中の砂漠では、乾いた砂粒か不断に流れて砂丘は刻々に変容してやまなかったが、ここでは砂の動きは鈍く、稜線の鋭さがない。  だが動かないなだらかな砂丘群はどっしりと安定しても見え、それはそれで砂漠のもうひとつの顔だろう。午前中に見た砂漠が不断に生成する世界を象徴するとすれば、ここには世界が存在する重さがあった。生成と存在は宇宙のふたつの相だ。昼前に私は生成の軽やかな戯れを味い、いまは存在の悠久のなかにいる。これ以上何を望むことがあろう。これまでも、いまも、これからも、この私が死んでも、刻々に生成変幻しつつ宇宙は存在するだろう。  白い砂丘の果てしない起伏を前方にに心ゆくまで眺め、振り返って湖面の静寂を深々と感じとりながら、私はそう思い続けた。  その思いは夢みることと違わない。  少し先のひときわ高い砂丘の頂に、黒い帽子に長い黒衣の男がひとり坐って瞑想している姿を見かけたときも、実際にこの目で見ているのか、影の私を心眼が夢みているのか、私はもう自分に間おうとはしなかった。  無限の砂と光と、そして遥かな遠い声だけがあった。 [#改ページ] カラスのいる神殿  人が生まれて死ぬところが家だとすれば、百年前とは言わない、五十年前までは確かにそうだったとすれば、いつのまにかわれわれは家を失ってしまったらしい。  単なる建物としての各自の家というものはある。むしろこの二十年、いや十年来、首都のこの巨大都市だけでなく、地方の都市だけでもなく、いわゆる農村地帯においてさえも、各自の家屋は小さいなりに麗々しくなり、白っぽいモルタル塗りの壁の至るところに出窓がついて、玄関は金色の把手つきのまがいのマホガニー製となり、要するに安物のデコレーションケーキのひと切れのようになってきた。まるで家が家としての理念を失ってきたことの埋め含わせに、見かけだけを飾らざるをえないような具合だ。  だが産婆さんがあたふたと家に走ってくるようなことはなくなり、近所の医者が聴診器の端がはみ出た黒カバンを手に、深刻な面持ちで門を入ってくることもなくなった。元気な産声も、死期の迫った病人のうめき声も、住宅街のどこからも聞こえてくることはない。不意の瀕死の病のときも、呼ばれるのは近所の医者ではなく、救急車である。救急車の特徴ある警笛の音なら、度々耳にすることができる。  家が家としての基本理念をいつのまにか失ってきたことを(誕生と死以上に基本的なことがあろうか)、すでにわれわれも漠然とは気がついてきた。病院での誕生と死を、家族の誰かや友人の場合、たいてい一度や二度は経験しているから。  だが一般概念として、そのようなことを知っているつもりでいることと、自分の死に場所が絶対に病院の集中治療室か救急車の中だと、自分自身のこととして実感することとは違う。誕生と死を追い出した家は、もはや家とは呼べないのではないか、と思い至るためには、それ相応の体験が必要である。  死に場所、という言葉も狭い意味の場所とだけ考えるには当たらない。故郷に戻って死にたいとか、そのことないしその人のためなら喜んで死んでもいいと言いきれるような、死ぬ拠りどころあるいは死の意味というようなことまで、私は含めているつもりである。そうした意味あいもこめて、われわれは死に場所を失ったと私は言っているつもりだが、これはいわゆる近代の終焉とか世紀末といった精々百年単位のことではない。われわれが人類として生き始めてから何百万年になるか専門家たちの説も必ずしも一致しているわけではないが、少なくとも北京原人からでも五十万年以来われわれの世代まで、人は自分の|住処《すみか》で生まれ死んできたのだ(移動中の死や戦いでの死を別にして)、という事実の大きさと深さを、われわれは本当に身にしみているだろうか。われわれは家の、家郷の本質を失ったのだ、ということを。あるいは始源と終末を切り捨てて、その中間だけのいわゆる生活の場としての家とは一体何だろうかということを。  始源と終末のドラマと神秘を受けもつのは、いまや病院である。病院はいまや病気を癒すためだけの一施設ではない。それはわれわれの生の両端に無限にのびている神秘にたずさわるいわば神殿のようなものだ  秋も終りに近い曇って薄寒い午後だった。  手術してから一年余が過ぎていた。退院後も転移予防のための免疫強化剤の注射のため、週三回通院していた。一日も休むことなく。  病院はJR総武線信濃町の駅から道路ひとつ隔ててすぐ近くだ。道路を渡りながら、病院の建物はすでに大きく見えている。十一階建ての新館と六階建ての旧館が主な建物で、どちらも淡くベージュ色を帯びた白い建物である。隣接する大きな建物がないので、とても大きくはっきりと見える。  その日はとくに何も特別の日ではなかった。駅の階段を登りながら、他の人たちにあまり遅れなくなったな、とちらりと思ったぐらいだ。退院してから半年ぐらいまでは、電車を二度乗り換えて通院するのがとても苦痛だった。乗り換えのホームでは必ずベンチに坐って休んだ。階段を登るときは手すりにつかまって一歩ずつ登った。一緒に電車を降りた人たちが皆登りきってからやっと登り終える有様だった。  それがかなり楽になったな、と何気なく意識したのである。それからいつのまにか手術後一年を過ぎて、転移の最も危険な時期を過ぎたことも意識した。もちろん転移の可能性は二年後、三年後まであるし、月一回の割合で血液検査の結果を調べる主治医も、自然免疫力の回復が思わしくないとして、注射はまだ続けるようにと言っている。  だが身体自体は体力の回復を感じ始めていたのだろう。病院の表門を入って、正面に新館の建物を見上げたとき、思いがけなく見なれてきた病院が違って見えたのだ。晴れた日には日ざしを受けてほとんど純白に輝いている病院が、妙に灰色に、しかも全体が縮んで見えた。天候のせいもあっただろうが、病院がそんなに違って見えたことは初めてだった。普通の十一階建てのビルのようだった。  新館の玄関まで門から百メートルぼどある。午後でも面会の人が往き来して結構、人の通りはあるのだが、私は幾度も立ちどまって病院を眺め直した。信じ難い思いで。単なる気分的な印象の違いではなかった。視覚だけの問題でもなかった。いわば体全体でそう感じたのである。  新館の建物は西側を欠いたコの字形の構造だが、門の方からは普通の直方体のビルのように見える。ただし建物の角が普通のビルのように角張ってなく、幾らか丸味を帯びている。それがソフトな白っぽい色彩とともに、建物に情感的な潤いを与えているのだが、その種母性的なオーラが消えていた。角の丸味よりも建物全体が鉄筋コンクリート製のビルだという事実が、灰色の空に剥き出しになっていた。固く冷え冷えと無表情に。  幾度眺め直してもそうだった。私はほとんど混乱したまま、玄関を入った。玄関を入ると、左側に薬を渡すところ、右側に料金を払うところがあって、いつも何十人もの人たちが待っており、中央の通路にも患者、その家族および面会者たちが歩いている。それもいつもの通りのことだったが、私の身体がいつもと少し違っていた。身体が患者と正常者とを区別するのだ。入院してまだ間もない頃もそうだった。自分の身体の一部に悪性の腫瘍を抱えていながら、たとえば車イスに乗った人、余りに痩せた人、顔面に繃帯をした人、点滴のホースをつけたまま移動ベッドで運ばれてゆく人たちを、敏感に意識したのだった。  ところが自分が手術したあとは、入院中も退院してからも、患者たちにとても身近な感じを、異郷で同国人に会ったような親近感を自然に覚えてきた。重症らしいと思われる人たちほど濃い感情を。そして花束などを抱えていかにも健康そうな面会人たちには、とても異質な感じを。  それは同情心とか心の優しさという次元のことではなかった。いわば身体そのものの自然な反応だった。とくに目からの光が消えかけている人たちを見かけると、自分の顔を見るように思った。  ところがこの日、その患者たちへの親近感が薄れていることに気づいた。付添いの人に抱えられてそろそろと床をすり足で歩いているガウン姿の人(入院患者だ)の傍を通りながら、自分の歩き方がいつのまにかほとんど普通に戻りかけているのを意識した。そうとはっきり意識したのは手術後初めてのことだった。私は急いで、おまえだって自然免疫力は健康者の半分程度も戻っていないのだ、と自分に言ったが、私の細胞たちは勝手に浮き浮きと弾んでいるようだった。  注射を終え一回毎の料金の支払いも済ませて、新館の玄関を出た。身体は疲れていなかった。これまではたいてい十一階にある喫茶店に行って、カフェオーレとアップル・パイひと切れの昼食をとりながらしばらく休んんできたのに、もう少し実のあるものが食べたい、と思っているらしい。自分が薄気味悪くもあり不安でもあった。自分の身体がひそかに変り始めている……。  本来ならそれは喜ぶべき兆候に違いなかった。血液検査の数字はどうであれ、体力が回復してきた兆候のはずなのだから。だが料金支払いの順番を待ってロビーに坐っている間も、よくわからない不安の思いが強まるばかりだった。  玄関を出ると右手に十数本ほどの樹木のある一角がある。その間に石や木の切株がベンチ替りにおいてあって、タバコの吸穀を捨てるところもある。とくに気に入りの場所というわけではないが、病院というところは落着いてタバコをすえる場所がきわめて少ない。入院中も時々病室をぬけ出してひと休みしに来たところである。  晴れた日でもそんな樹蔭に坐りこんでいる人は滅多にいない。ましてその日のような曇って薄ら寒い日に、他に人はいなかった。表門への花壇沿いの道を、診察に来た人たちはのろのろと帰ってゆき、見舞いの人たちは急ぎ足で玄関へと入ってゆく。自分が決心したというよりその小暗い一角に呼びこまれたような形で、私はそこに入りこんで腰をおろした。頭上に十一階の新館が聳えていて、斜め下方から眺め上げる形になる。旧館の低い建物が正面に細長く連なっている。  石のベンチに坐ってみて、私は病院を眺め直したかったのだ。本当に病院は変ってしまったのだろうか。  先程表門から入ってきた時より、雲はいっそう低くなっていた。まだ薄暗くなるほどの時間ではないはずなのに、空の灰色は濃かった。その灰色の重さに耐えるように、新館も旧館も病院の全体ががっしりと静まり返っている。病室のほとんどはカーテンがしまっている。オーラはやはり戻っていなかった。  というより、これまで病院全体がオーラと呼ぶしかないような靄のようなもの、磁場のようなもの、霊気のようなものに包まれて微光を発していたことが、それが消えたいま改めてわかったのだ。病院が単なる鉄筋コンクリートのビルのひとつではなかったことが。  初めてこの病院を訪れたとき建物をどう感じたのだったか、きれいで清潔な大きな病院だと思った漠とした記憶しかなかった。偶然に思いがけなく発見された自分の病気のこと、最悪の場合への怯えで頭がいっぱいだった気がする。自覚症状が全くなかったために、自分の意志で入院したにもかかわらず、むしろ不当に拘束されているという感じさえひそかに抱いていた。一日も早く退院して家に戻りたいとしきりに思った。一日たつ毎にカレンダーの日付をひとつずつ太いサインペンで消しながら。  入院して検査期間が二週間ほどあった。その間に腫瘍が悪性であることが確定されたことを主治医から告げられたのは、手術の前々日だった。そのとき主治医は入院前と最新のと二枚のCTスキャン写真を壁に貼って冷静に言った——ここに白くなった部分がふえているだろう。これがガン化した細胞の増殖のプロセスだが、ガン細胞がその臓器内だけで増えているのか、すでに体内にまわっているのかは患部を摘出して病理検査にまわしてみなければわからない。  確かそう言われた日の夜だったが、私はガウン姿のまま玄関の外まで出た。病室でひとりじっとしていることに耐え難かったからだ。もう一か月発見が遅れてたら、全身のリンパ腺にウイルスがまわっていただろう、はっきり言ってギリギリの微妙なタイミングだとも医者は言った。  玄関を出てみてわかったのだが、JR線の線路を隔てた競技場で、その夜はちょうど花火が打ち上げられていた。私は玄関を出て左の方、旧館の前の狭いコンクリートの歩道に腰をおろして次々と花火が新館の背後に打ち上げられるのを眺めた。表門からの広い道は玄関前の右側を通っていて、旧館の前の道は、人ひとり通れる程度の狭い道で、すぐ前には夜でも何台もの車が並んで注射されている。その車の列の間から花火を見上げるのだが、車を置いてある地面から十センチほど高くなっているだけの、コンクリートの路面に蹲っていると、新館の建物は立って見上げたときよりいっそう高々と見え、その背後の夜空にひろがる花火はさらに高かった。  次々と花火を打ち上げる音が大きくひびく中に、病院は白々と立っていた。そして花火の傘を背後に、病院は古い城か大きな教会堂のようだった。威厳を帯びて冷然と聳えている。地面にひとり坐りこんでいる自分のみじめさと、花火を背にした病院の建物の壮麗さが、余りにはっきりと対照的だった。病院は大きいだけではなかった。それは卑小な私の生死を司る絶対的な建物だった。神殿であり最高裁判所であった。自分の生死はそこの判決、そこの恩寵にかかっている。  この二週間毎日通った検査室のことを考えた。何十メートルもの長い廊下の両側に並んだ検査室。新館の一階からそのまま行けるのだが、そこの通路に入ると天井に幾本もの太いパイプが走っていて、壁の塗りも新館と違って古めかしい。検査室は地下にもあって、そこはさらに薄暗く、陰惨な気配が漂っている。各検査室の前にはベンチがあって、それぞれ何人もの患者たちが順番を待っているのだが、患者たちの表情は一様に暗い。誰も口を開かない。点滴の管を何本もつけて移動ベッドで運ばれてきている患者もいる。彼らは目さえ開いていない。  その検査室通りの途中に、廊下が通りと直角についていて、「放射線治療科」「がんセンター」と標識がかかったドアが、いつも閉じている。私の場合いまは新館六階の明るい病室にいるが、手術と病理検査の結果、すでにウイルスが全身にまわっていることがわかれば、多分この地下室的な感じの(実際は一階だが)ガン病棟に移されるのだろう。それからやがてどこにあるかはわからないが、霊安室へ。  はなやかな花火に彩られて夜空に白々と聳えながら、大病院はそういう影の部分を秘めている。それは街の小さな診療所とは違う。検査して診断して薬をくれるだけの場所ではない。人間の生存のごく一部の必要に対応するだけの仕事とビルがふえ続ける中で、大病院だけは人間の運命の全体に対応する。普通見たくないどころか考えたくもない最後の部分まで引き受ける。現実には治って退院してゆく人が多いだろう。だが遅かれ早かれ、いつか人間はすべてここに来るのだ、という恐ろしさと崇高さが腑分けし難くまじり合い溶け合って、大病院の建物は手術直前の私の目に、ほとんどこの世のものならぬ姿に見えたのだ。一種不気味な靄のようなものに包まれながら、後光のような微光を帯びて。  風のない真夏の息苦しい夜の申に、花火の光と音とともに聳える神殿。医師という神官たち。まだ若い看護婦たち。生涯に自分の血族や夫婦の何人かの死に立ち会うだけでもとてもつらいことなのに、彼らは何十人何百人の最期をみとる。経験ある医師たちはまだ耐えられるとして、若い看護婦たちが次々と臨終の場面を経験するということは、ほとんど信じ難いことだ。日頃の看護の肉体的過労より、死んでゆく患者たちをずっと何週間も見守り続ける精神的緊張の方が耐え難いだろう。  私はその夜、近くで花火大会があることを知って見物に出てきたのではなかった。主治医の正式の通告を病室でひとり考え続けることに苦しくなって外に出てきただけだったのに、自分の死の可能性(確率五〇パーセント程度か)と病院という存在が思いがけなく目の前で深く結びつき溶け合って、戦慄と畏怖の思いに強く駆られた。そして絶えまない花火の光の輪と音が、私のそんな想念のたかぶりをいっそうあおりたて、まるでそうだ、そうだ、と力強く同意し、よい考えだと夜空いっぱいに祝福するように思えた。  カルロス・カスタネダの本の中で、鳥の鳴き声や風の音やポットの水が沸騰してふたがカタカタ鳴るのは、おまえの考えないし行動に世界が同意ないし警告するしるしだと、インディアンの呪術師(禅の導師とそっくりだ)が語っていたことが思い浮かんだ。偶然の花火が私の生死の可能性のどちらに同意したか、ということではなかった。もちろんそのときの私にとってそれは最大の直接の関心事にちがいなかったが、そういう私的な次元のことではなく、病院は神殿だ、という思念の流れおよび実際に新館の建物がそう見えた、といういわば客観的な事象に世界が同意した、と思われたのである。  実際のところ思念の流れは私の考えというより身体の奥をふと流れた水の流れのようであったし、威厳を帯びた病院の形姿も私のそのときのイメージというより病院が本当の姿をかいま見させた、と感じられた。私的でしかない個々の偶然の事象に、世界は同意も警告もしないであろう。世界の同意ないし警告が得られるには、その夜の私のように、主治医の告知を聞いて日常の意識が深くひび割れ、身体そのものの思念ないし知覚が意識の表面まで露出した時だけであろう。  花火の光の祝福と音の同意に私は圧倒され、思わず立ち上がって病院の建物に向かって何か奇態なことを叫び出しそうな状態だったが(かつて人々が神殿に対してそうしたように)、かろうじて駐車場の隅のコンクリートの床に、自分の膝を両腕で抱えこみながら蹲り続けた。  それからちょうど一年たったことしの夏、私の目に病院がどう見えていたかの確とした記憶はない。ことしも近くの競技場での花火大会は催されたにちがいないが、昼間しか来ないので花火を背景にした病院は見ていない。  だが学校でも職場でも一年聞の皆勤など一生に一度もしたことのない私が、注射のための通院だけはすでに一年以上一回も休んでいない。初めの一か月ほどを除いてタクシーにも乗っていない。というのも転移の予防という自分の生命にかかわることだからだろうか。一回ぐらい休んだって翌日行けば、病院の連休のときのように中二日休むだけなので、注射の効果に影響はない。事実どんな暑い日でも寒い日でも、一度も病院に行きたくないと思ったことがないのだ。多少強い雨が降るぐらい全く関係ないのだった。  二度の電車の乗り換え駅で階段を登るとき、この間までは丘か小山に登るようだと思ってきたが、意識の奥では本当に丘の上の白い神殿に登ってきたのではなかったか。電車の駅の改札口を出て、道路の向こうに病院新館の建物が、日ざしをいっぱいに浴びて晴々と、あるいは冬空の下に陰々と威厳をもって建っている姿が見えると、とても安心するのだ。始終ほとんど意味もないざわめきを呟き続けている意識の奥が一瞬すっと静まり返って、体じゅうの綱胞たちが深く息を吸いこむのを感じる。帰るべきところに帰ってきたような気分さえ覚える。  主治医が冷静で有能で、外来の看護婦たちが明るく親切だという人間的感情だけでなく、普段は薄れがちな、私の存在にとって最も大切なものに近づく場所という気がするのだ。最も懐しい場所と感ずることもあるが、その懐しさは単に安心できて快いという意味よりもむしろ、本来的に絶対のものに直面するしんとした感情と言えるだろう。この世界と人生はどうしようもなく荒涼たるものに底深く浸されているという冷厳な事実への畏怖の念を、改めて実感する場所であり建物であった。  多分かつて多くの人たちが、次々と父祖たちが息を引きとってきた故郷の古い家、一族の墓地がある裏山の森、あるいは古くからの神社や寺院などに似たような思いを寄せてきたのだろう。だがこれまでの私の生涯にそのように懐しく畏るべき場所も建物もなかった。  死の危険から私を救ってくれる場所であり、やがてそこで死すべき場所。病院の廊下で足をとめて眺めるのは、移動ベッドに寝かされて目を閉じた血の気のない老人たちと、そして生まれた赤ん坊を抱いて退院してゆく若い母親たちだった。われわれはどこから来て、どこに行くのか、という永遠の謎をはらんだ存在だ。その謎の解き難さ、理解しえぬ不条理が私を引きつける。  そうだった、といま私は痔が痛くなりそうな冷えた石のべンチに腰をおろして、過去形で考えている。これまでとくに必ずしも意識してはいなかった病院の本質的な姿が、思いがけなくまざまざと見える。眼前の病院がみずからを閉ざしかけたいま。  私は新しい時期に入ろうとしているのだ、と声に出して言うように、一語ずつはっきりと考える。死を一般的観念としか考えていなかった手術前の自分とも。転移の危険に怯えながらもとにかくきょうは生きている、と一日一日がそれ自身で光るように実感されたこの一年余の自分とも違う時期に。そしてその新しい時期をどう生きるか、何を拠りどころとして生きるのかわからない。  手術前の自分に戻ることはありえない。この自分がいつか必ず死ぬこと、その意味を絶対に理解できぬ荒涼と理不尽な事態の中に逃がれ難く位置づけられていることを、頭だけでなく身体の細胞が知ってしまったから。 一日一日生きているという気持ちの張りを持ち続けるには、死の脅戚が薄れ始めている。きょう一日ではなく明日明後日のことが気になり出している。何も役に立つことはしなかったがきょう一日生きのびた、という喜びをすでに素直には感じられなくなっている。  神殿の扉が閉じる。意識の深層が閉じる。体力だけが回復するだろう。数年あるいは長くても十数年後に、必ずまたここに戻ってくる身体の、仮釈放あるいは執行猶予。  いよいよ濃い灰色の空を背にして、新館の建物全体が身震いするように相貌を変える。身を固く閉じる鉄筋コンクリートの巨大な塊から、白い微光を放つ優しく威厳のある懐しい建物へ、そしてまた無表情の高層ビルへと、まるで固まる途中のゼラチン状のふしぎな物体のように。  そのとき背後の木の梢で、いきなりカラスが鳴いた。すぐ頭上のように近かった。見上げなくても大きなカラスとわかるほど、重々しくなまなましい鳴き声だ。世界が私の考えに同意したのか、それとも警告したのか。この場所でも表門からの道でも、これまでカラスの声をこんなに近くで聞いたことはない。少なくとも記憶はない。このカラスはいまの私の不安を動揺を感じとっている、と自然に思った。  反射的に私も同じ声の高さと音量で、カーと叫んだ。間髪を入れず、カラスも鳴き返した。情感のこもった声だ。私も答えた。向こうも鳴いた。四、五回同じ調子で鳴き合ってから、相手は、クククッと断続する鳴き方をした。私もすぐその鳴き方に同調した。その間私は一度も背後を振り返らず頭上も見上げなかった。  初のカーと尾を引く鳴き声には同意ないし共感の味わいがあった。生物がこの世界を生きてゆくということは、いまきみが感じ考えている通りの容易ならぬことなのだ、と。  だが最後の断続する鳴き方には、何か不安なひびき、不同意ないし警告の切迫さがあった。いい気になるな、と。  断続する切迫した鳴き方を二度叫び合ってから、羽音がした。梢を飛び立ったらしかった。かなり大きなカラスらしくはげしい羽音だった。ことしは天候不順のせいで輪郭が崩れた黄葉が、私の目の前の空間をいっせいに乱れて散った。 [#改ページ] 石を運ぶ  死に至りかねなかったガン手術の体験は、退院後日がたつにつれて、どこか遠い遠いところに行ってきたようなものになった。そしていま、その遠いところから帰ってくる不安な道程の途中のような気分だ。まだ帰るべきところに帰り着いていない。日常が薄い膜か靄の向こうにしか感じられない。目の前にあるはずの事物や、まわりで起っている出来事との間に、隙間ないしズレがある。  同時に、日毎に薄れながらも身体と心の奥に尾をひいている”あそこ”の感覚が、ちょっとしたきっかけで蘇っては、異様な現実感を覚えることがある。  そんな退院後二年ほどたったある夜、病院までインターフェロンと言う免疫強化剤の注射をしに行って帰った日の夜だった——注射の強い副作用のため全く食欲がないまま形ばかりの夕食のあと、私は居間の長椅子にしどけなく横になっていた。わが家のテレビ受像機も居間にあるが、私にとってこのところテレビの映像は、百メートル先でちらつく陽炎のようでしかない。  そのときも家族がつけたままの画面に、私は全く無関心だったのだが、タバコを取ろうとして片手を伸ばしかけて(転移するとすれば必ず肺ガンだと医師に言われながらも、私はタバコを吸い統けている)、たまたま映っていたCMか海外ルポ番組らしいひとつのシーンが、不意に目近に迫って見えた。  画面では、低い位置からカメラが上向きに疎林の木立を写し出していた。樹冠が空をかくす熱帯雨林ではなく、葉が茂り放題で枝が曲がりくねった照葉樹林でもない。疎らな木々の幹がひっそりと垂直に空に向かって立っていた。枝も葉も多くない。北方の針葉樹林である。広角レンズのせいで、木々の先端は肉眼以上に高く長く、その先の空も高い。湿気がこもった温帯の島国の空ではなく、日光がぎらついて濃すぎる熱帯の空でもない。淡く青く乾いた空。絹雲が高くかすかに棚引いて、静謐な光が透明である。ひんやりと澄んだ北方の空。  他の物は何も写っていない。人間も建物も動物も鳥も。カメラを操作しているカメラマンが当然いるわけだが、真上に向けられているレンズのせいで、彼の視線の方向は強く印象づけられるが、カメラマンその人の存在は感じられない。  何気なく目に入ったほんの数秒間の短いシーンだったが、異様に強くその光景は長椅子に横になって茫々と開ききっていた私の意識の奥まで、いきなりじかに入りこんできた。ナレーションか音楽を伴っていたかもしれないが、完全に意識から消えている。意識したのは「この光景は確かに見たことがある」という私自身の内側からの、声のない呟きだけだ。  しかもその「見たことがある」という実感は、いつ、どこで、という特定の記憶を伴わない。まさに「いつか、どこかで」だ。そして時空間的なあいまいさは、その実感の質と無関係である。むしろ特定の時と場所に結びつかないために、逆に純粋で強烈だった。強いて言葉にすれば「生まれる前に」という言い方に最も近い。  そしてその光景は不可解な親しさを帯びていた。こんな北方の高木の疎林を、ちょうどこの角度で、つまり仰向けになって眺め上げたことがある、と私は異様に懐しくそう思った。この澄んだ明るさとしんと静まり返った静寂のなかで、あの刷毛で刷いたような高い雲のたたずまいを。  しばらく経ってから、あれはあのときあそこで見た風景だった、とおもむろに記憶と結びつく風景も時々あるけれど、そういう記憶が薄れていた場合とは違っていた。私の意識の、覗きこめないほど深くに確かに実在するイメージ。幾ら時間が経っても、いつどこでだったかを思い出すことはあるまいが、消えることも薄れることも決してないだろう。  初生児ないし幼時のある時期での「刷り込み」ではないかとも考えてみたが、私は東京で生まれ五歳まで東京の山の手で育っている。東京市内に針葉樹はあっても針葉樹林はない。東京郊外の武蔵野は乾いて北方的だとしても、あの高々と垂直の木はケヤキではない。  前世とか来世とか、霊魂が次々とタクシーを乗り継ぐように転生するといった妄想を、私は手術の直前だって直後だって一度たりとも抱いたことはない。だが脳構造を決める私の遺伝子コードの一部に、祖先たちの誰かの記憶が偶然にインプットされていたということなら、絶対にありえないとは言い切れない。  あの北方の疎林をあの角度から見上げたのは私だ、という咄嗟の実感がどうしても抜けない。偶然に一瞬出会っただけのその光景が、数週間たったいまも、その不思議な鮮明さと強烈さを矢わない。私とは本当のところ何者なのだろう。気軽に「私」という言葉を、いつも口にもし文章にも書くけれど。    手術をする前年の夏のことだ。ある旅行雑誌で若い編集者とふたり、国内の少し変った場所を訪ねるという企画があった。  種子島の発射基地で宇宙用ロケットの射ち上げ実験があるということで、予め取材の許可もとって羽田空港まで行った。とくに台風の多い夏で、一度旅客機の予約をとった日に台風が南日本に接近し発射が延期になって羽田から戻ったことがある。この二度目の発射予定の日も、新しい台風が九州方面に近づいていて、また延期になるのではないかと私たちは恐れながら羽田空港まで行ったのだった。  そして恐れた通り空港ロビーのテレビで、発射が再度延期になったことを知った。急いで旅客機の予約をキャンセルしたが、雑誌の締切の関係から、もうこれ以上ロケットの発射を待っていられなかった。 「どうしよう」と私たちは空港内のホテルに入り、とりあえずレストランで昼食をとりながら、代りの取材場所を相談した。レストランの広いガラス窓越しに、次第に強まる風雨の中を飛び立ってゆく旅客機が次々と見えたが、代りの場所はなかなか決まらない。 「折角二度も羽田まで来たのにな」  資料を集めて調べておいた国産大型ロケットの姿が、幾度も浮かんだ。 「南は台風でダメだとすれば、北のどこか……」  そう言いながら、心の中で発射台上のロケットのイメージがゆっくりと変形し始めた。  直立する金属製のロケット……直立する鉱物的なもの……直立する石。 「そうだ、青森か秋田に『日時計石』と呼ばれる遺跡がある」  一、二度写真で見たことがあっただけの縄文時代の遺跡だが、直立する石のイメージは意外に強く私の心を誘った。高さ数十メートルという大型ロケットに比べれば、高々ニメートル足らずの棒石のはずだが、ロケットを見られなくなった失望がみるみる埋められてゆく気がした。 「あそこにしよう。あそこでなければダメだ」  私はそのままホテルに残り、編集者のK君は急いで東北新幹線と旅館の予約をとりに会社に戻った。  翌朝早く羽田のホテルを出てK君と一緒に上野駅に行き、私は初めて東北新幹線に乗った。車中で、十年近く前までは埼玉県の大宮市より北に行ったことがなかったことを思い出した。父の郷里が広島県で、戦後東京に進学してからは休暇毎に東海・山陽線は往復したが、学生時代には他の土地まで旅行する経済的余裕がなかったし、新聞社の外報部に就職してからは時間的余裕がなかったうえ、出張は外国ばかりだった。  だが果してそうした外的事情だけだったろうか。私の母方は岩手県の出身である。母自身は東京で生まれ育ったが、母方の祖父母は水沢市の生まれ育ちで、とくに祖母は長く東京に住みながら東北弁の訛が抜けなかった。東北地方に対して偏見があったとは私自身全く思わないけれど、長い間進んで東北を訪れる気持ちがなかったことは事実だ。  母の血の奥を探りたくない、という自分でもよくわからないブレーキのようなものがあった。その気持ちは、私自身の暗く内側に閉じこもろうとする一面の根に、直面するのを恐れる気分とも通じている。自分自身の中に何か深く意識化したくないものがある。  ルーツ探しの好きな人たちがいる。家系の、血筋の、遺伝的な過去の闇を進んで探ろうとする人たち。私は広島の父方の過去についても、偶然に耳にしたこと以外、自分から進んで知ろうとしたことはない。父が晩年になって膨大な自分史のようなものを書き残していたが、一枚も読んだことはない。自分の血筋の奥とは、自分自身の意識の奥、意識下の記憶の闇の奥だ。それを意識の光のもとにさらけ出すのは、実はとても恐ろしいことなのではあるまいか(私の息子も私とよく話はするが、私の小説は読まない)。  そんなことを、窓の外を通り過ぎてゆく東北地方の山野や町を眺めながら、ぼんやりと考えていた。水沢の町も超特急列車は忽ち走り過ぎた。多分私は生涯、母の故郷を訪れることはないだろう。何がこわいのか。私の意識には、何か底深く捩れたものがある……。  だがこわいということは、強く|牽《ひ》かれる力の裏返しでもある。精々数百年程度の自分の家系の過去は探ろうとしないながらも、考古学的、人類学的、生物学的な過去に対しては、私は普通以上の熱意と親しみを持ち続けてきた。|卑弥呼《ひみこ》程度の過去ではない。有史以前の、縄文時代の土器の歪みに、殷墟の暗い血のにおいに、ラスコーの比類ない洞窟壁画に、タンザニアのラエトリ遺跡に残る直立歩行の確かな足跡に、私は自分を、故郷を感じとってきた。単なるこの私ではない私、果て知らぬ過去の闇から|目眩《めくるめ》く未来へと連なる私、少なくともその影を、その変容の遥かな記憶とひそかな予感とを。  盛岡で新幹線を下りると、台風前の湿気で全身の毛穴が詰まるようだった東京とは、別世界のような澄んで乾いた世界があった。肺の奥まで爽やかに大気が流れこむ。  盛岡からタクシーで、十和田湖南方の秋田県鹿角市の大湯まで直行する。途中通過した村々の農家の屋根が明るい空色に塗られているのに驚く。私の貧しい国内旅行の経験でも、空色の屋根を他の地方で見かけた覚えがない。東京でも広島県でも、青瓦の家ならあるが瑠璃色めいた重いブルーが多いのに、ここの屋根は単純に空の色、信じ難く澄んで乾いた大陸性高気圧の空の明るさである。  暗く内向的な、という私の長い間の東北地方への先入観とは異質な感性。冬の日本海沿岸地方は確かに暗いが、真夏の東北地方は快く明るいのだ。岩手県が日本文学の中で例外的に宇宙的な宮沢賢治を生んだ地だったことを、改めて思い出す。空が高くしかも身近だ。  十和田湖から流れ出る米代川の支流が、舌の形に地面を浸蝕し残した舌状台地という細長く平らな台地の上に、目的の遺跡はあった。温泉宿が数軒ある大湯の中心部からタクシーで十分ほど。疎らな林とリンゴ園と陸稲の畠が散在している。  道路をはさんだ両側にふたつの|環状列石《ストーン・サークル》があった。片方が「野中堂環状列石」、他方が「万座環状列石」と名づけられ、ふたつ合わせて「大湯環状列石」と総称される。環状列石の実物を目前にするのは初めてだった。写真で想像していたより全体のスケールがかなり大きい。台地の下の川原から運び上げたらしい細長く丸っこい自然石を十個ほどずつ集めた組み石が、二重の環の形に置かれている。昭和はじめに偶然発見され、戦後本格的に発掘、調査されて、縄文時代後半の初め頃、約四千年前につくられたことがわかった。  縄文時代というと複雑で歪形的な土器の形を連想するけれど、この遺跡で驚くのはその二重同心円の環の形の、大胆に抽象的でシンプルな形の美しさだ。外側の環の直径が約四十メートルほどだが、これまで発見された二重の環の外側にさらに三重四重の環があったらしい、と無人の案内所に置いてあった説明には書いてある。推定されている外側の環まで広げると、小さな野球場に近い広さになる。  大和地方や九州に残るずっと後代の天皇や豪族の巨大な墓は、時の権力者が多数の農民たちを奴隷的に使役して築き上げたものと思われるが、稲作農耕以前の縄文時代の狩猟採集民の人口はきわめて少ない。この時期の東北地方全体でほぼ五万人という推定がある。すでに定住が始まっていたらしいが、縄文人たちは最大でも数百人程度のグループだったろう。普通は数十人程度だったかもしれない。  彼らが長い年月をかけて、ソリのようなものに乗せて川原の石を台地まで運び上げたに違いない。彼ら自身の意識に浮かんだ世界の、あるいは宇宙の形に、その石を組み上げ並べていったのだろう。いま低い柵が設けられて環の中まで入りこめないが、権力者たちが自分の地上的でしかない富と権力を、他の人間たちに誇示した稲作以後の威圧的な陵墓とは違って、ここの石の環の形には、人々が自分たち自身のために自発的につくり出した、としか考えられない素朴さと自然さがあった。  学者たちの研究によると、縄文時代半ば頃に気候の世界的な変動があったらしい。最後の氷河期後の温暖な時代が終って、気温が低下し木の実も小動物も大型獣も減り、人口も後期に入って激減した。前期の温暖で食料も豊かで、それなりに生き易かったいわば時間なき世界の中に”変化”が出現したのだ。それは彼ら狩猟採集民たちの心に大きな不安を生んだであろう。世界が狂った、世界と自分たちはこれからいったいどうなるのだろうという恐怖。  私に縄文時代の信頼できるイメージを与えてくれた『縄文時代』(中公新書)の著者小山修三氏は、全期で八千年、この時期までで六千年間も破局的変動なく経過してきた縄文文化そのものが、停滞安定のための一種の自家中毒的なデカダンス傾向が生じていたらしいと示唆している。その傾向が気候の変動と重なって、後期に入ると土器は歪み、呪術的な土偶が急に増える。  だがいつの時代でも、変化と不安は意識の糧だ。変動は意識を鋭敏にし、不安を鎮めるための新しい精神的な試みが、何よりも自分たち自身の生存のために行われる。世界再確認のための、新たな自己認識のための、旧来の基準からはクレージーとさえ見えかねない大胆な試み。  柵の外からふたつの二重同心円の組み石の環を眺めながら、私は小学生の頃、学校の運動場の地面に、陣取りや宝物探しのゲームのために、様々な同心円や渦巻の形を、棒の先で刻みつけたことを思い出した。最初は粗雑な方形や円だったのが、次第に方形は迷路状になり円は三重四重五重と増殖し、銀河系状の渦巻が幾箇も絡み合ってゆき、ゲームのための装置という当初の目的を離れて形自体の自己増殖という傾向を帯びていった。当然その結果、ゲームの方も複雑化した。  そしていつのまにかその地面図形の設計製作は私の専任となり、本来は寝起きが悪い私が、晴れて校庭で遊べる日には一時間も早く起きて、始業時間のかなり前に登校しては、ひとり無人の校庭の隅に棒切れの先でさまざまな形を刻みこんだのである。前夜寝床に入ってから暗い天井に形を思い描き、翌朝校庭でも棒切れを握るとさらに複雑な形が自然に湧き出してくるのだった。数日もその線条の上でゲームをすれば、あるいは雨が降れば一日で薄れ消えてしまう形なのに、自分の内部から次々と浮かんでくる形を地面に刻みこんでゆくのは、おさえ難い喜びだった。  だが考えてみると、私が小学生の高学年だったその頃は中国との戦争が長期化し太平洋戦争が始まる直前で、世の中も学校も急速に軍国主義化していった時期だ。もともとリベラルな家庭に育っただけに、神社参拝や旗行列や軍事教練まがいの体操や軍国唱歌などが息苦しくてたまらなかった。欧州ではすでに大戦が始まっていた。それだけでなく小学校も上級になると、おぼろな性の衝動が兆し始める。好きな女の子ができて、魅惑的な不安と悩みを意識する。生きるということが、幼年時のようにそれなりに安定したものでないことを予感し始める。  そんな外界と自分自身の内部の気圧変動の不安が、地面に描く整然たる同心円や入り組んだ迷路の形と深くつながっていたのだ、と改めて思い当たる。心の動揺は形を求める。描き出された意識下の不安をさらに意識させる。  一見しただけでは川原の石の塊を丸く連ねただけの風変りな遺跡の光景が、そんな少年時代の記憶と重なって、私自身の過去の五十年、この遺跡の過去の四千年という現実的な時間の違いを超え、茫漠と仄暗い過去一般の薄闇に溶けこんでは同じように妖しく息づき始めるのだった。この環状列石を作ったのは私だ、われを忘れて小学校の校庭に同心円や渦巻を刻みつけていた私だ、と。  しかもこの環状列石は台地に組み石を丸く並べただけの素朴なものではない。二重の環を構成するのは、十個前後の石を組み立てた小さな構造体だが、その組み石は何なのか。  予め町役場の遺跡係に立ち寄ったとき、係員が断言したのも、そこで渡されたパンフレット類に明記されてあったのも、組み石のひとつひとつが墓で遺跡全体は共同墓地だったという。骨は出てこないが、組み石の下から動物の残存脂肪反応が検出されているそうだ。  専門家たちはそろってそう考えているらしい。だがたとえそうだとしても、なぜ共同墓地の墓の並びがこのように正確な同心円の形になっているのか。共同墓地という余りに地上的な見方考え方に、私の実感は同調しない。この遺跡のリアリティーはその全体の配列の形にある、墓というような実用性を超えたところに——と私の感覚は強く訴える。これは単なる共同墓地ではないはずだ。  この大湯環状列石は、「日時計組み石」と呼ばれる特別の組み石で有名である。組み石の環の内側に、ひときわ高く細長い棒石(高さ一メートル以上)が、周りを花弁状に敷き並べられた小さな石に囲まれて、ぽつんと孤立して直立している。ふたつの環状列石にそれぞれ一個だけ。環の中心にではなく、中心と円周との中間あたり。ふたつの列石で、その特別の石の位置が少し異っているが、その直立する石こそ私の意識下の思念の中で、発射台上のロケットのイメージがおのずから変形したものである。 「日時計」という俗称は大ざっぱな印象からそう名づけられたもので、実際に時計の用をなすほど直立石は高くない。だが「日時計」という呼び名、天文的なものに深くかかわるその印象は意外に正しいのではないか、と幾度も柵のまわりを回りながら次第に強くそう思われてきた。ここは冴えた空が身近な北方の地なのだ。湿気に浸されている関東地方以西とは異質の精神風土。  幸いよく晴れた正午過ぎ。太陽の位置を見定め、パンフレットの略地図でだいたいの方角を測ってみると、二本の直立石ともそれぞれの環の中心点から西北西の方向に立っている。つまり真西からやや北寄りの方向。西とは日没の方向だ。そして昼の長い夏場には太陽は真西より北に寄って沈むだろう、という程度の天文的常識は私でも持っている。さらに昼が最も長い夏至のタ暮に、夕日は最も北に寄って沈むはずだろう。  とすれば、環の中心と直立石(日時計石)が指し示す西北西という方向は、夏至の日の日没の方向でなければならない。  町役場で係員が「共同墓地ですよ。それ以上何の意味もありませんね」と断言したあと、「ではあのひときわ高い日時計石は何ですか」と私は尋ねた。すると係員は言下にこう答えたものだ。 「酋長の墓じゃないですか」  その答えを思い出して、私は笑いかつ怒る。何という貧しく地上的な考え方。そして天体への関心も知識もあるはずのない濛昧な原始人としか縄文人たちを想像できない傲慢さ。  少しでも虚心に環の中のあの特別の直立石を眺めれば、それが意味もない位置に意味もなく立てられているはずがない、と気づかない方が濛昧ではあるまいか。ネアンデルタール人以後、人類の脳容量は変っていない。これを共同墓地としか考えられない専門家たちより、この環状列石を構想して西北西と意味ある方向に直立石を立てた縄文人のすぐれた個体の意識の方が、迫りくる不安とともに鋭敏になって、頭上へ、空へ、宇宙へと大きく開かれていたのだ。大きな同心円というシンプルな形そのものが、天体の運行の観測から導かれた世界そのものの最も基本的な形のように思われる。何という広く全体的な意識と大胆な抽象能力。  西北西という方向が、月の出と入りあるいは肉眼で最も明るく見える金星の季節毎の位置の変化などと、どう関係があるのか、私の天文知識は常識以上を出ないけれども、まだ発掘されてない第三、第四の基点のようなものが見つかれば、夏至の日没以外の天文知識を北方の縄文人たちが持っていたことも、いずれ明らかにされるかもしれない。  そんなことを考えているうちに、眼前の遺跡は単に特殊な石の並べ方の跡ではなくて、一種の天体図の趣を帯びてくる。これは四千年前の祖先たちの宇宙のイメージであり、彼ら自身の意識(無意識も含めた)の形なのだ、と。  気候は年毎に寒冷化し、植物も動物も人間も減ってゆき、世界は急速に悪くなってゆく。夏至の日から、太陽の運行は低く短く弱くなり夜は夜毎に暗く冷たくなるが、冬至の日から再び再生する太陽が果して一年前と同じに明るく暖かいだろうか。  四千年前のこの舌状台地の狩猟採集民たちが、どんな思い、どんな不安な眼差で、二本の直立石の先端を結んだ向こうの山の端に沈む夏至の夕日を眺めたか、惻々と身に迫って感じられてくるのだった。  いま東京の住民たちは、私が見る限りほとんど絶対に、道を歩きながら空を見上げない。自動車を運転している連中は見たくたって見られない。地下鉄に空はない。私は駅前のスーパーマーケットに夕食の材料を買いに行く往き還りに、ビニール袋を両手に下げて(ネギの先端などが突き出ていて)、夏ならば坂道の向こうに沈む夕日を、冬なら雑居ビルの上に昇る月を、立ちどまって眺める。  しばらく前から自動車の排気ガスで濁って湿気の多い東京の空では、夕日も満月も輸郭はぼやけ光は貧血しているが、手術後一年ほどまだ意識が浮遊状態に近かった秋の晴れた夕方、病院に注射に行った帰りの自宅近い坂道を下りながら、ちょうど正面に大きな夕日がくるめき落ちるのを異様にはっきりと見たことがあった。日頃のように濁って赤くなかった。強烈な黄色な球体が世田谷の住宅街の上で燃えたっていて、ほとんど金色に見えた。かなりの速さでその球体は回転していた。  これがあの太陽か、と足をとめて見つめるにつれて、中心から次第に黒くなってゆきやがて回転する黒い球体になった(決して日蝕ではない)。しかもその黒が黒曜石のように激しく輝いて、その輝きはほとんど魔的だった。まるで別の惑星上から別の太陽を眺めている気がして、そんな自分がこの自分ではないように気味悪い。無意識の底が剥き出しになったような異様な精神状態でやっと自宅まで戻ってくると、自宅の玄関の黒いドアの表面に、黒い太陽の残像が浮き出して回転しながら、皆既日蝕のコロナのように周りが妖しく光った。  そんなことはごく稀だが、前日雨か風が強かった日の夜、たまたま満月が不気味に青白く明る過ぎて、あんな巨大な物体が光りながら虚空を動いていることの気味悪さに、体の芯が冷えるような思いをすることもある。  四千年前の舌状台地の人々も、めっきりと数が減ってきた貴重なウサギかタヌキの獲物を両手に下げて、台地の端から言い難い畏敬と不気味な思いで、沈む黒い夕日を、昇る死の色の月を眺めたに違いない。互いの顔だけを見つめ合って甘ったるい声を出している若い男女や、路上で近所の噂話に熱中している主婦たちや、ただ俯いて家路を急ぐだけの中年の男たちよりも、想像上の四千年前の人たちの方がいかに意識の奥で親しいことだろう。  われわれの自然的および文明的気候もじわじわと変り始め、すでに頭上のオゾン層には幾つも大きな穴があいている。 「いずれの社会も、ひとつの同じ天空の下で人々の生死が繰り返され、そのなかで人々が恐れや希望とともに、さまざまなイメージを抱いて暮らしていた」 [#地から1字上げ]——G・S・ホーキンズ『宇宙へのマインドステップ』  環状列石に私が天文のにおいを嗅ぎとるのも、スーパーマーケット帰りの道での個人的経験のせいばかりではない。かねてから私は天文的な遺跡に親近感をもってきた。豪勢豪華な地上権力的な遺跡には意識の表面でしか感心しないけれど(それにしてもイラン南部で見た古代ペルシア帝国王都ペルセポリスの廃墟は壮麗だった)、天文的な遺跡にはたとえ写真だけでも、心の奥が懐しさで震える。とりわけイギリス南部の巨石遺跡ストーンヘンジ。  私はイギリスに行ったことがなく、実際にストーンヘンジを訪れてはいない。だがポランスキー監督の映画『テス』の最後の場面で、私の好きなアメリカの写真家リチャード・ミズラックの写真集の中で、その他数多くの写真であの壮大な遺跡の光景を目にする度に、私は確かにかつてそこに立っていたことがあり、直立させた二個の石の上に横石を載せた巨石の鳥居の間から、夏至の夜明けの太陽を、冬至の夜の月の出を見た、とどうしても思えてならない。  いかにクレージーに聞こえようとも、広漠たる平原の中に聳えたつ陰々と巨大な列石の写真を見つめていると、じわじわと私にはそう実感されてきて、時には狂おしくて泣きそうになる(ちなみに私は日常、滅多に涙をこぼさない)。  直径百メートルを越える円形の土溝の内側に、石灰土を詰めた三重の穴の環、さらにその内側に四重の列石の環。ストーンヘンジは超弩級環状列石である。そしてその幾重もの同心円構造の遺跡は、東北東の方角を主軸にして構成されている。列石中心部からその方向に、夏至の日の太陽が昇る。著名な考古天文学者G・S・ホーキンズ博士によると、地平線上の月の出入りをマークする目印の石もあり、日食と月食の日を予測することさえできたらしいという。深く天文的な構造物である。さらにストーンヘンジが現在の形に作られたのは、ほぼ紀元前二千年(四千年前)。「大湯環状列石」とほとんど同時代だ。  ただし使われた石の大きさが格段に違う。ストーンヘンジ中心部の最大の組み石の高さは七メートル。重量は何十トンもあろう。その大石は三十キロ北方の丘から運ばれたといわれ、全体が作られるのに恐らく何百年も要しただろうというが、それだけの大事業を、どんな人たちがどんな思いに駆られて行ったのか。その点で専門家たちも困惑するのだ。ストーンヘンジをはじめスコットランド、アイルランドにも多数残っている天文的な環状列石を作った新石器時代後期の人たちの顔が見えないのである。  ホーキンズ博士は「原ヨーロッパ人」あるいは、かつてウェセックスと呼ばれた南部イングランドに墳墓が多くあることから、「ウェセックス族」と呼んでいるが、彼らは文字を持たなかったので文書類は一切なく、民間伝承も途絶えてしまっていて、歴史的には無言無顔の民なのだ。ケルト族について記録を残したローマ人に相当する存在が、彼らにはなかった。ケルト族のブリテン諸島移住は紀元前五百年以後、その千年ほど前にストーンヘンジは放棄されていたから、ケルト族とは全く別の種族である。  ストーンヘンジ人たちの意識と観念は、巨石の大いなる沈黙の言葉を通して知りうるのみ。その幾重ものシンプルな同心円の形、地平線上の太陽と月の出入りの位置を指し示すその構成だけである。だが彼らが天の光に、太陽の熱い光と月の冷たい光に、あるいはその運行の秩序と調和に、憑かれたように親しかった心情が、私にはわかる。  すぐれた農耕と牧畜の民だったケルト族と違って、彼らは森と荒野の人だったろう。俯いて地面を耕し羊と牛の群を追っていた農牧民ではなく、空を、夕日を、月と星々を常に見上げていた最後の狩猟採集民たち。北方性の疎林と原野。そして気候と文化の大きな変動の時代。終末的な翳り濃い不安。石という確かな物体のシンプルな配列に、天の光の秩序を封じこめることによって、動揺する個人的集団的アイデンティティーを確かめ直そうとしたほとんど偏執的な試み。  シべリアに果して天文的な環状列石の遺跡が多いかどうかは知らないが、ユーラシア大陸高緯度地方の両端の島に、ほぼ同時期の同質の遺跡が残っていることが、私には偶然の一致とは思えない。澄んだ北方性高気圧の空が近かった人たち。ユーラシア大陸北方に連なっていたかもしれない狩猟民たちの鋭敏な|宇宙的感覚《コズミック・センス》の見えない|帯《ベルト》。 (宇宙ロケットの原理を最初に考え出したのも、ロシアのツィオルコフスキーだ)  母方の東北の血を通じて、いまも東京の住宅地でタ日を、月を眺めて血が騒ぐ私のような人間があり、同じ血が『銀河鉄道の夜』の詩人も生んだであろう。  私は紀元後二千年に間近な東京の私鉄沿線で日暮毎にスーパーマーケットに買物に行っている、というより紀元前二千年の日本列島東北の舌状台地で、ブリテン島南部の平原で、環状列石の天文図形を作るために毎日石を運んでいる、と想像する方が透きとおるように冴えた現実感を覚える。  縄文人の顔はおぼろに思い浮かぶとしても、ストーンヘンジ人の顔は見えない。顔のない私が石を運びながら、丘と荒野の果てに沈む夕日を見つめている。昇る銀色の月を眺めている。明日知れぬ底深い不念の思いと、この私にはすでに薄れかけた聖なる感情とともに。 [#地付き] 付記——この作品を書いてしばらくたった一九九四年六月末、秋田県埋蔵文化財センターの富樫泰時所長が、このふたつの環状列石の中心と日時計石を結ぶ線の延長上に、夏至の太陽が沈むことを実測によって確かめた、という新聞の報道を読んだ。 [#改ページ] 火星の青い花  どちらから書き始めようか。青い花から、それとも火星の黄色い荒地から? どちらからでも多分同じことのはずだ。  三年近く前、私は悪性の病気の手術で、一か月大きな病院に入院した。その間友人知人たちが見舞いにきてくれた。花を持って来た人たちが多い。艶やかな深紅のバラや大きな籠いっぱいの高価なランの花束など。  私がいたのは六階の個室で東側の一方が広いガラス窓になっている。べッドは明るい窓の方に頭がくるように置かれている。窓は出窓風になっていて、花ビンが置けるほどの広さの平たい部分がある。持ってきてくれた花は、入院病棟に大小さまざまな形がそろっている適当な大きさの花ビンに入れて、そこに並べた。  不安がちな気分のため、初めは華やかな深紅のバラ数本を一番よく見える位置に置く。 (眠りにつくまでは、ベッドの上で頭と足の位置を逆にしている。そうでないと窓外の眺めも花も眺められないから)  ところが検査が続いて手術の日が近づくにつれて、バラの花が気分を圧迫し始めた。上質のビロードのドレスを思わせる真紅のバラは、妖艶な女ざかりの女、気が強くて肉体的自己主張の強い女、派手好きで情感たっぷりにいかにもおしつけがましく女らしい女、世に言う”|宿命の女《ファム・ファタル》”の濃密なにおいを帯びて感じられ出したのである。  もちろんこちらの神経も弱まってきたせいだろうが、日ましにその感触、その連想が耐え難くなる。人並にはそのタイプの女性にこれまで魅せられてきたこともあったけれど、ついに自分からベッドをおりて、バラの花ビンを床におろしてベッドの上からは見えないようにした。  代ってこれまで部屋の隅の方に形だけ花ビンにさしておいた|竜胆《りんどう》の青い花が何となく興味を引いた。青色の花というのはきわめて少ないが、とくにその竜胆の花は|桔梗《ききょう》の花のように紫っぽく淡い水色とちがって濃い青色だ。前の晩に雨と風が荒れて思いきりスモッグを吹き払った朝などまれに東京でも空がそのように純粋に青くなることがある。中学生のころ余りに鮮やかなその青さに魅入られて、理科教室の棚から放課後、盗み出した硫酸銅とそっくりの、一種この世のものならぬ青である。  手術前日、終日窓のその青い花を眺めてすごした。開腹するとすでに体内各部にガン細胞が転移している可能性もあった。その不安な精神状態を、濃すぎる青い花は静かに吸いとってくれるようだった。ある意味では極端に身体的になっている私の意識を、そっと別の次元に切りかえてくれるようでもあった。  そうして翌朝、全身麻酔による手術のあと集中治療室での一晩をすごしてから、次の日の昼過ぎ移動ベッドで自室に戻ったとき、まだもうろうとしている私の眼を最初に捉えたのが、窓際の青い花だった。室内の他の物体も私自身の身体の感覚も絶えまなくゆらめいている状態の中で、竜胆の花だけがしんと静まり返っていたのである。  深紅のバラが”宿命の女”だったとすれば、青い花はいったい私にとって何の象徴だったのだろう。それは少なくとも性を越えた何か、集中治療室で深夜に目ざめるまで十数時間の完全な暗黒状態のあとにも、私が意識をもっていることの信じ難いしるしのようであった。世界がありそして私がそれを意識できるというほとんど神秘的な事態。  個室に戻ってからも三日間ほどは、数時間おきに注射してくれるモルヒネ系鎮痛剤の副作用で、間断ない幻覚、幻聴に苦しめられたが、その合間にふっと意識が冴えて戻るとき、青い花はつねに変ることなく私の最も身近にあった。 (手術前のようにべッドに逆向きに寝られないので、体の位置を変えなくても目に入るべッド横の床の上に、竜胆の花ビンを置いてもらっていた)  その三日間のはげしい幻覚と幻聴に驚き怯えながらも、私がそれらをほとんど明確に幻覚、幻聴と意識していたのは、多分その透きとおる深すぎる青さの平静さのせいだったろう。  青という色がこれほど私にとって貴重な色だったとは(グリーンではなくあくまでブルーの青だ)。そしてこんなに濃く鮮やかな青い花がこの地上にあったとは。  生命力などというあいまいなものではなく、それははっきりと意識の色、そして宇宙的な色だ。  さて火星のことだ。  それは三年前のことではなく、ようやく回復し始めたこの数箇月来のことである。 (回復といっても、まだ転移予防の免疫強化剤を一日おきに注射しに病院に通っているので、身体的にはもちろん精神的にも本当は回復とは言えない)  実は私は昔から砂漠か好きだった。実際に砂漠で暮すのが好きという意味ではなく、映画や写真で見る砂漠の風景に憧れに近い親しみをもってきただけだが、手術の少し前に、ある雑誌から「世界じゅうでどこでも好きなところに出かけてエッセイを書きませんか」という申し出があったとき、直ちに「砂漠」と答えるくらいには本気だったのである。  アフリカのサハラやナミブ砂漠は遠すぎるので、中国奥地のタクラマカン砂漠を私は希望した。そして雑誌社の若い編集者とふたりで、北京とウルムチ(新疆ウイグル自治区)を経由し、小型飛行機で天山山脈を越えて、崑崙山脈のふもとにあるオアシスの町ホータンまで行った。  普通、世界地図にdesertと書かれているところは、必ずしもわれわれが考える砂丘の果てしない連なりとしての砂漠ではない。荒れて乾いた地面が露出した不毛の平原——いわば土漠も含んでのことであって、純粋な砂漠はそれほど多くはない。中国語では砂漠のことを沙漠と書くがこれは純粋な砂丘の連なりをさし、石ころがごろごろしている荒地はゴビと言うらしい(漢字でどう書くのか忘れた)。  タクラマカンは本格的な沙漠であった。鳥取砂丘を上まわる大砂丘が、ホータンの町はずれから見渡す限りに連なっていた。春の、しかも一年三日しか降らないという雨の翌日だったせいもあるが、私たちはほとんど狂喜して砂丘を登っては下り、下りてはまた登った。真夏の烈日とか、砂嵐の荒れる時だったら、砂漠は恐ろしい相貌をみせただろうが、この日は大気も澄んで静まり返り、地平線まで続く砂丘を見渡すことができた。  数時間程度私たちは砂漠の中へと歩いたが(その程度ではほんの端をかすめたに過ぎない)、片時も退屈することがなかったのはふしぎである。想像しうる限りの曲面があり、微風とともに刻々に変化する曲線があった。その一種抽象的な形の変化は実に豊かで爽やかであった。私は多年の想像をはるかに越える美しさに十分満足して帰国した。帰国してからも繰り返し砂丘の曲線を思い出して心慰められた。  ところがこの最近のことだ。砂漠は豊かに美しすぎる、と急に思い始めた。なだらかな曲面の連なりの記憶が次第に身近さを失い始めたのである。  代って尖って不規則な岩の破片が一面に散乱する光景が、意識の奥からせり出してきて懐しいと言いたいほどの濃い感情を伴い始めた。それも普通の荒地の風景ではなく、徹底的に荒れて、眼球に突き刺さってくるような眺めだ。  きっかけらしい特別の出来事があったわけではない。むしろ体調も意識の状態も少しずつ確実に安定しかけていたはずである。あるいはそのようなわずかながらも安定化の傾向そのものへの反発が兆し始めたのかもしれない。むしろ三年前の手術前後の危機的な状態の方が、実は私の意識は深層が剥き出しになって活性化していたのではないか、それに比べていま私の知覚は受身に目に見えるものしか見えなくなった。  一日おきに病院に通いながら、退院して一年後ほどまでは、自分が入っていた六階の病室と窓およびその窓から見える別病棟の屋上のあたり——手術直後の夜々にさまざまな異形の幻覚が動きまわり飛び交ったあたりの空間が、陽炎のようにゆらめいて見えていたのに、いつの間にかその空間が閉じて他の空間と同じようにしか見えなくなったのである。いまはもう幾ら夜空に意識を集中しても、異形の影は浮かんでこない。あの幻覚の夜々は耐え難いほど恐ろしかったのに、人間とは勝手なものだ。  なだらかに曲線的な砂漠ではなく、意識に突き刺してくるように徹底的に荒涼たる風景——それがちょうどタクラマカン砂漠に行った頃にレーザーディスクで見た火星の風景だったごとも、はっきりと思い出した。アメリカがあいついで送り出した火星探査機「バイキング」1、2号が無事火星に着地して地球に送信してきた初めての本ものの火星表面の写真である。そのレーザーディスクもほとんど徹夜して興奮して見たのだが、当時の私には地球の砂漠の魅力をおしのけるほどには印象強くなかったらしい。  レーザーディスクは太陽系惑星探査機「ボイジャー」撮影の分と二枚、銀座までわざわざ買い求めに行ったのだが、レーザーデッキまで買う余裕がなくて友人から一時借りたデッキを使った。つまりいまこれを書きながら改めてディスクを見直すことはできないのだが、五年近くたつだろうか、その映像の記憶は意識の奥に強く残り続けていたのである。その記憶の映像が、砂漠の記憶の奥から浮き出してきた。  だが単にレーザーディスクの記憶が偶然に甦ったということではない。五年前以上になまなましくいま私の意識には見えるのだ。実際にこの目で眺めたタクラマカン砂漠以上の異様な現実感をもって、その黄色い土砂、褐色の尖った岩片の群、淡くピンク色の空が。 「バイキング」が着地したその地点に、私が立っているような気さえする。いや私は立っている。荒涼とした黄褐色の風景を、思い出すのでも想像するのでもなくて、しばしばありありと知覚する。  なだらかな地球の砂丘の細やかな砂粒の流れがつくる微妙な曲面よりも、岩の破片だらけの鉱物的風景の荒々しさを、より親しいと感ずるものが私の内部で育ち始めている。  火星には二酸化炭索の薄い大気がある。平均して秒速二メートル余の風が吹いている。太陽から遠いので寒いが、地球にほぼ等しい一日のうち日中は零下三十度ぐらい。零下三十度なら冬のシベリアの最寒地帯より暖いくらいだ。  微風は砂にゆるやかな起伏を生むが、岩の破片の角を風化させるほど強くはない。散乱する尖った岩の破片が、きわめて火星的な風景である。そして風景全体の黄色の色調。空は青くない。水分は地下や岩石中には存在し、極地方では広い氷の層をつくるが、地表を流れる水はない。  アメリカとロシアは火星に人間を送りこむ計画をもっている。経済状態の悪化は当初の予定をかなり遅らせるだろうが、時期的な多少の遅れはそれほど問題ではない。二十年後だろうと百年後だろうと。それは技術的、経済的な偶然の問題である。必然的なのは専門家ではない私のような人間も、意識の深層でその世界を、その風景を見始めているということだ。天国でも地獄でもないひとつの惑星の風景を。  われわれが深くしかもある程度持続的に思念し想像して具体的なイメージを描けることは、遅かれ早かれ現実となるのだ。物質的事実を全く無視するわけにはゆかない。だがわれわれにとってこの現実、この世界、この宇宙をつくり出すのは、われわれ自身の意識である。意識が知覚を生み、知覚が現実をつくる。  オリンパス山とすでに名づけられている、太陽系中最大の火山の頂が、黄色い地平線の一部に見える。高さ実に二万六千メートル。  月面の映像は多数見ているが、大気の全くない月面の風景にはほとんど色がない。強烈な直射日光と濃い影の世界だ。それに比べて火星には色があるのがうれしい。  この私が生きて火星を訪れることはないであろう。だが急速に私は、この私という個的実体の感覚が薄れ始めている。この肉体が死んでも霊が残って転生するというような迷妄を信じるからではない。  私と基本的に同じ脳の構造と脳神経細胞の回路をそなえた人間は、同じ条件下で私と同じように知覚し思考し行動するだろうと考えるからだ。単性生殖でない限り正確に同じ遺伝子配列、精密に同じ脳構造ということはありえない道理だが、遠からず百億人に達する男女の遺伝子の組み合わせは、いずれどこかでこの私にほぼ近い脳神経細胞の回路を偶然に実現するだろう。それは私ではないだろうか。この私だって年齢によって、日々の気圧の変化によってさえ厳密には同じ意識状態ではない。  火星の黄色い風景に強くひかれる人間、その荒々しさに言い難い魅惑を覚える人間は、基本的に私だ、と私は考え始めている。  そんなことを茫々と、異常になまなましく考えて、火星に立っているこの私ではない私のことを強く想像していた夜明け近く(最近では再び夜更けまで起きていることができるようになった)、やっと机から離れて立ち上がったとき、本棚の段の一番端にあって普通は目につかない一冊の本を、意識の深みの目が捉えた。それはドイツ浪漫派の詩人ノヴァーリスの小説『青い花』の翻訳だった。その背文字を目にした途端、私は三年前の病室の竜胆の花を鮮やかに思い出した。しばらく全く忘れていたのに。  ノヴァーリスの『青い花』は私の愛読書というほどの作品ではない。とくに強い影響を受けた覚えもない。ところがもう二十年以上も前に読んだはずの青い花のイメージが、私の意識の奥に、身体的な記憶の領域にひっそりと生き続け育ち続け花開き続けていたのである(病室でノヴァーリスのことを連想したことはない)。  その青い花のイメージが、現に眼前に眺めていたような火星の風景と、ごく自然に重なり合った。火星の荒地の中に一輪の青い花が咲いているではないか。  それは竜胆の花とは違っていた。ハイビスカスの花に似た比較的大柄の花弁が開いた青い花だった。そんな大柄な青色の花を見たことはない。竜胆の花は茎に沿って小さく並んで密生していて、ひとつひとつの花は区別し難い。  だがノヴァーリスの主人公が夢の中で見た青い花のように、その花は優しい女性の顔に変貌するようなことはなかった。ノヴァーリスの花は淡い青色だったと思うが、火星の花は竜胆そっくりに濃かった。人間的な何者かの象徴ではなかった。それが象徴的だとすれば、その濃すぎる青さはまさに宇宙的なものの象徴だ。  何者かに変容することもなく、ただ岩の破片の蔭に黄色の乾ききった砂地から咲き出した一輪の花。その青さは宇宙の深い静寂と謎の無限(人によっては神秘というかもしれない)を凝縮したひとつの物体として、ひっそりとそこにあった。強いて言えば、宇宙がその神秘的な青から広がったように思えた。空間も時間もそこから生まれた。  ノヴァーリスのほこりだらけの書物を手にしたまま、私は狭い書斎の真中に立っていた。ひとつだけの窓の外では夜が明ける前の闇が最も濃かった。私は遠からず(何百年も先のことではない)火星の黄色い地面に立つだろう。そして必ず青い花に出会うだろう、という想像が自然な確信になっていった。この花に出会うために火星まで来たのだ、と。  それはかつてない喜びだった。想像ではない。身体的な喜びだった。この身体を断崖の端から連れ戻してくれた医師たちに感謝した。竜胆の花を贈ってくれた友人に感謝した。完全には回復したとは言えないこの身体があと精々数年しかもたないとしても、恐ろしがることもさびしがることもないのだと思った。自分でも意外なほど冷静に。  この私ではない私がいつか必ず火星で青い花の前に立つだろう。その私がどんな顔の私かということは、そのとき私がどんな色の宇宙服を着ているかと同じことに過ぎない。その「いつか」が何十年後であろうと百年後であろうと、問題ではないのと同じことである。  ようやく本を本棚に戻して二階の寝室に上がってベッドに入った。もう十何年来、軽い神経安定剤を睡眠薬がわりに服用しているのだが、この夜(もう朝だ)は敢えて人工的に意識を安定させる気がしなかった。乱れて澄んだ意識をそのままに続けていたかった。  予想通り神経は安定しなかった。想像なのか知覚なのか夢なのか不明な、あるいはそのすべてがまじり合い溶け合った状態が長々と続いた。カーテンを閉じた寝室の薄闇に横たわったまま、ゆるやかにはげしい意識の浮遊状態が続いた。  病室の竜胆の記憶が、偶然ノヴァーリスに誘われた青い花が、火星の黄色い風景の中で繰り返し花開いた。  この狂おしく透明な興奮状態を味うために、この私はこのやりきれない人生を六十年も生きてきたのだな、と思った。 [#改ページ] あとがき  実はここに収めた作品を書きながら、これが多分私の最後の短篇集になるだろう、と思っていた。転移の危険がまだあったから。  いまこうして、自分の部屋で(病院でなく)、「あとがき」を書いているのが信じ難く妙な気分だ。  連作を考えていたのではなかったのに、自然に四十歳以後の経験を書いていた。そのため結果的に、三十五歳までの記憶を書いた長篇小説『台風の眼』(一九九三年)の、素材のうえでの続篇という形にもなった。  それにしても中年以後もよく外国に行ったと改めて思う。新聞社で長く外国関係の仕事をしてきたためだが、もともと「外地」で育った私には「本国」と「外国」との違いがそれほど本質的ではない。いわゆる|異国趣味《エキゾチシズム》という感情はない。  世界そのものとの出会いと、それによる自分自身の新たな発見という体験において、東京湾の埋立地をうろつくのも、中国奥地の砂漠まで出かけるのも同じようなものだ。  意識の深みがたかぶり開いているとき、世界はどこでも荒涼と美しい。 「自然」という言葉が多い。五年前の病気以後、何となくそのことを考えることが多いからだが、自然は恐るべき|混沌《カオス》なのか、それとも畏るべき|理法《ロゴス》を秘めているのか——その問いは書くことによってかえって重く深まっている。  次の「最後の短篇集」でも解けないかもしれない。 [#地から1字上げ]日野啓三  一九九五年炎夏 [#改ページ]    初出紙誌一覧 プロローグ 心の隅の小さな風景[#地から1字上げ]朝日新聞「出あいの風景」 1995年3月 塩塊[#地から1字上げ]「すばる」 1995年6月号 聖岩[#地から1字上げ]「中央公論文芸特集」 1994年秋季号 幻影と記号[#地から1字上げ]「すばる」 1995年1月号 古都[#地から1字上げ]「中央公論文芸特集」 1995年夏季号 遥かなるものの呼ぶ声[#地から1字上げ]「中央公論」 1995年1月号 カラスのいる神殿(世界の同意・改題)[#地から1字上げ]「文学界」 1992年2月号 石を運ぶ(顔のない私・改題)[#地から1字上げ]「中央公論文芸特集」 1993年夏季号 火星の青い花[#地から1字上げ]「すばる」 1993年7月号 [#改ページ] 底本 |聖岩《ホーリー・ロック》 Holy Rock  一九九五年一〇月三〇日初版印刷  一九九五年一一月 七日初版発行  著者 |日野啓三《ひのけいぞう》  発行者 嶋中行雄  発行所 中央公論社  〒104 東京都中央区京橋二‐八‐七  電話 販売部〇三(三五六三)一四三一     編集部〇三(三五六三)三六六六  振替 〇〇一二〇‐四‐三四  印刷 大日本印刷  製本 大日本印刷  ◇定価はカバーに表示してあります。  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Keizo Hino ISBN4-12-002502-0 COO93